王朝交代説
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クシャーナ朝の王統は長く貨幣銘文などによる断片的な記録に基づいて復元されており、不明点が多い。クシャーナ朝の王統復元について長く支持されてきた説がクジュラ・カドフィセスとヴィマカドフィセスの属する王朝と、カニシカ以後の王朝は別の王朝であるとする説、すなわちカニシカ王による王朝交代説である。 これはカニシカ以後、「カドフィセス」から「イシカ」系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインではギリシア語の称号をギリシア文字で、プラークリット語の称号をカローシュティー文字で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後はバクトリア語の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠としている。 これとあわせて、チベットの伝説にホータンの王子ヴィジャヤキールティが「カニカ」(Kanika)王とグザン(Guzan、おそらくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったというものがあること。漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。このことからカニシカが小月氏の出身であるとする説もある。 ところが近年新たにカニシカ王の碑文が解読され、クシャーナ朝の歴史について多くの新事実が明らかとなった。この碑文は1993年にアフガニスタンのラバータクで偶然発見されたもので、バクトリア語で記された1200字あまりの文書であり、クシャーナ朝時代のものとしては最も長文の記録の一つである(ラバータク碑文)。内容はこの地方のカラルラッゴ(総督)であったシャファロに対して、カニシカ王の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことが記録されたものであった。この結果、カニシカ王とそれ以前の王との間に血縁があったことが判明した。 この碑文の解読によって、曾祖父のクジュラ・カドフィセス、祖父のヴィマ・タクト、父のヴィマ・カドフィセス、そして碑文を作らせたカニシカの4名4世代の王統が判明した。特にヴィマ・タクトは従来全く知られていない王であったが、彼の存在が明らかになったことによって初期クシャーナ朝の歴史に本質的な修正がもたらされた。これまでクシャーナ朝時代に発行されたコインの中で、ソテル・メガスという称号のみが記されたタイプの物がクジュラ・カドフィセスによるものか、ヴィマ・カドフィセスによるものかが論じられてきたが、その多くはヴィマ・タクトのものであると考えられるようになり、クシャーナ朝の大幅な勢力拡大が彼の時代に行われた可能性も考えられている。
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王朝交代説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 03:15 UTC 版)
カニシカ以後、カドフィセスからイシカ系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインではギリシア語の称号をギリシア文字で、プラークリット語の称号をカローシュティー文字で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後はバクトリア語の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠として、カニシカ王による王朝交代説が長く多くの学者によって唱えられてきた。 これを傍証するものとして、チベットの伝説にホータンの王子ヴィジャヤキールティがカニカ(Kanika)王とグザン(Guzan、おそらくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったという物や、漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。 しかし、前述のラバータク碑文の解読から、この王朝交代説に大きな反証が提示された。この碑文は、この地方のカラルラング(総督、辺境長官)であったシャファルに対して、カニシカが彼の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことを記録するものであり、碑文の中に、カニシカの祖先として曾祖父のクジュラ・カドフィセス、祖父のヴィマ・タクトゥ、父のヴィマ・カドフィセスの名が記録されていた。この碑文はクシャーナ朝史の研究に大きな見直しを迫るものとなった。
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