岡田英弘の倭国論・王朝交代説・日本の建国についての見解
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東洋史学者の岡田英弘は、東洋史学者としての立場から中国・日本の史料を解釈することを標榜し、「日本の建国」に先立つ日本列島の歩みを次のように区分した。 中国(秦・漢時代)の地方史を構成していた時期。日本列島に散在した倭人の「諸国」とは華僑たちが居住する交易の拠点であり、北九州の「奴国」や邪馬台国などの倭王たちは、中国の都合で設置された、倭人の「諸国」の「アムフィクテュオニア」の盟主にすぎず、国家といえるような実態は日本列島にはまだ存在しなかった。 中国の分裂(三国時代・南北朝時代)に乗じて中国周辺の各地域に独自の政権が成立していく一環として、近畿地方を拠点とする政権が成立した時期。この時期、近畿地方を支配圏として倭国が成立、日本列島の各地や朝鮮半島の南部の諸国を服属させ、その支配者は中国の政権(三国の魏や南北朝の宋など)から「倭王」の称号を受けた(倭の五王その他)。 中国の再統一にともなう国際情勢の激変にともない、日本列島の倭国とその他の諸国がそれぞれの組織を解消して統一国家「日本」を建国。中国で統一王朝が成立(隋および唐)し、中国による近隣諸国への攻撃、併合(突厥・高句麗・百済)がすすみ、日本列島が国際的に孤立するという緊張の中、668年~670年、倭国とその他の諸国は従来の組織を解消、ひとりの君主を中心とする統一国家としての組織を形成し、国号を「日本」、君主を「天皇」と号し、これを「日本の建国」とする。 岡田は、720年に成立した日本書紀について、「日本の建国事業の一環として編纂され、壬申の乱で兄の子弘文天皇より皇位を奪った天武天皇の子孫である現政権の都合を反映した史料」と位置づける。 日本書紀にみえる歴代の天皇たちについては、神武天皇より応神天皇までは、創作された架空の存在とし、当時の近畿地方の人々に「最初の倭王」と認識されていたのが「河内王朝」の創始者である禰(でい、日本書紀でいう仁徳天皇)とし、その後播磨王朝、越前王朝が次々に交代したとする。 また、日本書紀が、現皇室系譜を直接には「越前王朝の祖」継体天皇にさかのぼらせている点について、隋書の記述を根拠として、日本書紀には日本書紀の成立直前の倭国の王統について極めて大きな作為があること、また、舒明天皇とそれ以前の皇統の間でも「王朝の交代」があった可能性を指摘している。 岡田英弘の王朝交代説 河内王朝 播磨王朝 越前王朝 舒明天皇以降の、「日本建国の王朝」
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