岡田英弘の倭国論・王朝交代説・日本の建国についての見解とは? わかりやすく解説

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岡田英弘の倭国論・王朝交代説・日本の建国についての見解

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:43 UTC 版)

王朝交替説」の記事における「岡田英弘の倭国論・王朝交代説・日本の建国についての見解」の解説

東洋史学者岡田英弘は、東洋史学者としての立場から中国・日本史料解釈することを標榜し、「日本建国」に先立つ日本列島歩み次のように区分した中国(秦・漢時代)の地方史構成していた時期日本列島散在し倭人の「諸国」とは華僑たちが居住する交易拠点であり、北九州の「奴国」や邪馬台国などの倭王たちは、中国都合設置された、倭人の「諸国」の「アムフィクテュオニア」の盟主にすぎず、国家といえるような実態日本列島にはまだ存在しなかった。 中国分裂(三国時代南北朝時代)に乗じて中国周辺各地域に独自の政権成立していく一環として近畿地方拠点とする政権成立した時期。この時期近畿地方支配圏として倭国成立日本列島各地朝鮮半島南部諸国服属させ、その支配者中国政権(三国の魏や南北朝の宋など)から「倭王」の称号受けた(倭の五王その他)。 中国再統一にともなう国際情勢激変にともない日本列島倭国その他の諸国それぞれの組織解消して統一国家日本」を建国中国統一王朝成立(隋および唐)し、中国による近隣諸国への攻撃併合(突厥高句麗百済)がすすみ、日本列島国際的に孤立するという緊張の中、668年~670年倭国その他の諸国従来組織解消、ひとりの君主中心とする統一国家としての組織形成し国号を「日本」、君主「天皇」号し、これを「日本建国」とする。 岡田は、720年成立した日本書紀について、「日本建国事業一環として編纂され、壬申の乱で兄の子弘文天皇より皇位奪った天武天皇の子孫である現政権都合反映した史料」と位置づける日本書紀にみえる歴代天皇たちについては、神武天皇より応神天皇までは、創作され架空の存在とし、当時近畿地方人々に「最初倭王」と認識されていたのが「河内王朝」の創始者である禰(でい、日本書紀でいう仁徳天皇)とし、その後播磨王朝越前王朝次々交代したとする。 また、日本書紀が、現皇室系譜直接には「越前王朝の祖」継体天皇さかのぼらせている点について、隋書記述根拠として、日本書紀には日本書紀成立直前倭国王統について極めて大きな作為があること、また、舒明天皇それ以前皇統の間でも「王朝交代」があった可能性指摘している。 岡田英弘王朝交代説 河内王朝 播磨王朝 越前王朝 舒明天皇以降の、「日本建国王朝

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