王朝史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 16:57 UTC 版)
5世紀の初め頃の日付けを示す石碑や彩色土器が見つかっていることからカラクムルの王朝が始まるのはこの時期と考えられるが、王の即位日が長期暦で記されていないため時期が確定できない。一説によると「カーン」王朝がカラクムルを首都としたのは6世紀に入ってからではないかと考えられている。 546年、トゥーン・カップ・ヒシュ王は、ナランホ王アフ・ウォサルの即位を後見したことが記録されている。次の王は、「空を見る者」と呼ばれる王で562年に現ベリーズにあったカラコルを支援してティカルを破り、以後中部低地において覇権を確立した。全盛期はタホーム・ウカッブ・カック(「燃え上がる手」)王(在位622~630)、「ユクノーム頭」王(在位630~636)、「大ユクノーム」(ユクノーム・チェン2世)王(在位636~686)の時代である。タホーム・ウカッブ・カックのとき、626年、決別を図ろうとするナランホ王を2度にわたって破った。「ユクノーム頭」王のとき、631年にナランホに対して決定的な勝利をおさめ、その君主を屈辱的な殺し方で殺した。「大ユクノーム」王のとき、南方約180 kmに位置するグアテマラ・ペテシュバトゥン地方にティカルの王族の一人が建てた新王朝のドス・ピラスを支援してティカルを牽制した。しかし、次の王のユクノーム・イチャーク・カック(「燃え上がる鉤爪」「ジャガーの足」)王のとき、695年、復興したティカルの王ハサウ・チャン・カウィール1世に敗れて以後、衰退した。 ユクノーム・イチャーク・カックの没後は、その子のユクノーム・トーク・カウィールが即位し、ドス・ピラス、ラ・コロナ、ナランホとの同盟関係を保った。しかし731年以後におそらく再びティカルの攻撃を受けて捕虜になった。その後もカラクムルは続いたが、蛇王国の主の称号を名乗ることはなくなり、カラクムルは一地方政権に過ぎなくなった。その後、カラクムルは深刻な旱魃に襲われ、8世紀末から10世紀はじめにかけて劇的に人口が低下した。人々はピラミッドを破壊して住宅を作った。カラクムルは戦争によってではなく、自然に放棄された。石碑61号のカレンダー・ラウンドの日付はおそらく909年と解釈されている。
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