王朝の断絶、イベリア連合の成立
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「アヴィス王朝」の記事における「王朝の断絶、イベリア連合の成立」の解説
セバスティアンの死後、枢機卿ドン・エンリケ(エンリケ1世)が王位に就き、モロッコに莫大な身代金を支払って捕虜を取り戻した。ドン・エンリケの即位当時ジョアン3世の子孫は全て没しており、マヌエル1世の孫にあたるブラガンサ公ジョアンの妻カタリーナ、クラトの修道院長ドン・アントニオ、スペイン王フェリペ2世らが後継者候補に挙がっていた。また、カタリーナの姉妹マリアはパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼと結婚し、息子のラヌッチョを産んだ後に没していたが、ラヌッチョは年少であり、アレッサンドロはネーデルラント総督としてフェリペ2世に属していた。後継者を決めかねたエンリケ1世は1579年から1580年の間にコルテスを招集するが、結論は出なかった。1580年1月11日にアルメリンで開催されたコルテスでは、リスボン市民の代表者であるフエボ・モンスが外国人の王の即位の反対と独立の維持を訴え、フェリペ2世の働きかけを受けた党派が議会の多数を占めることはできなかった。エンリケ1世はリスボン大司教と4人の貴族で構成される臨時摂政を任命し、1580年1月に後継者を指名しないまま没する。 ポルトガル国民の大部分はドン・アントニオを支持し、彼をスペイン王フェリペ2世に対抗できる唯一の人物と見なしていた。だが、経済的に困窮するポルトガルの貴族と聖職者はフェリペ2世に懐柔され、イベリア半島の統一による財政制度の強化を望む大ブルジョアジーはフェリペ2世を支持し、ブラガンサ公もスペインに屈服する。1580年6月にアルバ公フェルナンドが指揮するスペイン陸軍とスペイン艦隊がポルトガルに進攻し、アントニオはリスボン、サンタレン、セトゥバルなどの都市でポルトガル国王即位を宣言した。8月25日にアルカンタラの戦いで勝利を収めたフェルナンドはリスボンに入城し、1580年内にアソーレス(アゾレス)諸島を除くポルトガルがフェリペ2世の支配下に入る。1581年4月にトマールで開催されたコルテスでフェリペ2世の即位が承認され、事実上ポルトガルはスペインに併合される。 1583年にはアソーレス諸島もスペインの占領下に入り、フランスに亡命していたアントニオはフランスとイングランドにスペイン領となったポルトガルへの攻撃を依頼した。アルマダの海戦でスペイン艦隊に勝利を収めたイングランド艦隊はリスボンを攻撃するが、戦果を挙げることはできず、またフェリペ2世はポルトガルに寛大な統治を敷いていたために民衆の蜂起も起こらず、1595年にアントニオが没するとフェリペ2世はポルトガル国王として公認される。1640年までハプスブルク家のフェリペ2世直系の人物がポルトガル王とスペイン王を兼位する状態が続き、イベリア半島に同君連合(イベリア連合)が成立した。 フェリペ2世 ドン・アントニオ 17世紀前半のポルトガルではスペインからの独立を望む民衆の声が強くなり、モロッコで生き延びていたセバスティアン1世がスペインに戻って王位を回復するセバスティアニズモの気運が高まる。1640年12月にポルトガルの貴族は反乱を起こし、彼らに擁立されたブラガンサ公妃カタリーナの孫ドン・ジョアンが王位に就き、ブラガンサ王朝を創始した。
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