王朝の断絶、イベリア連合の成立とは? わかりやすく解説

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王朝の断絶、イベリア連合の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:37 UTC 版)

アヴィス王朝」の記事における「王朝の断絶、イベリア連合の成立」の解説

セバスティアン死後枢機卿ドン・エンリケ(エンリケ1世)が王位に就きモロッコ莫大な身代金支払って捕虜取り戻した。ドン・エンリケの即位当時ジョアン3世の子孫は全て没しており、マヌエル1世の孫にあたるブラガンサ公ジョアンの妻カタリーナクラト修道院長ドン・アントニオ、スペイン王フェリペ2世らが後継者候補挙がっていた。また、カタリーナ姉妹マリアパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ結婚し息子ラヌッチョ産んだ後に没していたが、ラヌッチョ年少であり、アレッサンドロネーデルラント総督としてフェリペ2世属していた。後継者決めかねたエンリケ1世1579年から1580年の間にコルテス招集するが、結論は出なかった。1580年1月11日にアルメリンで開催されコルテスでは、リスボン市民代表者であるフエボ・モンスが外国人の王の即位反対独立維持訴えフェリペ2世働きかけ受けた党派議会多数占めることはできなかった。エンリケ1世リスボン大司教と4人の貴族構成される臨時摂政任命し1580年1月後継者指名しないまま没するポルトガル国民大部分はドン・アントニオを支持し、彼をスペイン王フェリペ2世対抗できる唯一の人物見なしていた。だが、経済的に困窮するポルトガル貴族聖職者フェリペ2世懐柔されイベリア半島統一による財政制度強化を望む大ブルジョアジーフェリペ2世支持しブラガンサ公スペイン屈服する1580年6月アルバ公フェルナンド指揮するスペイン陸軍スペイン艦隊ポルトガル進攻し、アントニオリスボンサンタレンセトゥバルなどの都市ポルトガル国王即位宣言した8月25日アルカンタラ戦いで勝利を収めたフェルナンドリスボン入城し1580年内にアソーレスアゾレス諸島を除くポルトガルフェリペ2世支配下に入る。1581年4月トマール開催されコルテスフェリペ2世即位承認され事実上ポルトガルスペイン併合される1583年にはアソーレス諸島スペイン占領下入りフランス亡命していたアントニオフランスイングランドスペイン領となったポルトガルへの攻撃依頼したアルマダの海戦スペイン艦隊勝利を収めたイングランド艦隊リスボン攻撃するが、戦果挙げることはできず、またフェリペ2世ポルトガル寛大な統治敷いていたために民衆蜂起起こらず1595年アントニオ没するフェリペ2世ポルトガル国王として公認される1640年までハプスブルク家フェリペ2世直系人物ポルトガル王スペイン王を兼位する状態が続きイベリア半島同君連合イベリア連合)が成立したフェリペ2世 ドン・アントニオ 17世紀前半ポルトガルではスペインからの独立を望む民衆の声が強くなり、モロッコ生き延びていたセバスティアン1世スペイン戻って王位回復するセバスティアニズモ気運が高まる。1640年12月ポルトガル貴族反乱起こし、彼らに擁立されたブラガンサ公カタリーナの孫ドン・ジョアンが王位に就きブラガンサ王朝創始した

※この「王朝の断絶、イベリア連合の成立」の解説は、「アヴィス王朝」の解説の一部です。
「王朝の断絶、イベリア連合の成立」を含む「アヴィス王朝」の記事については、「アヴィス王朝」の概要を参照ください。

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