王朝の成立
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コムネノス王朝の東ローマ皇帝であったアンドロニコス1世コムネノスは、そのあまりな強権的な改革から貴族や国民の反発を受けて、1185年にアンドロニコス1世の改革に反対する貴族や首都コンスタンティノープルの市民は、イサキオス2世アンゲロスを擁立して反乱を起こし、アンドロニコス1世を処刑する。そして、新たにイサキオス2世が皇帝として即位することとなり、ここにアンゲロス王朝が成立したのである。アンゲロス家の祖コンスタンティノス・アンゲロスはコムネノス王朝の初代皇帝・アレクシオス1世コムネノスの娘テオドラと結婚しており、イサキオス2世はその孫に当たる。したがって血統的にはコムネノス王朝にも連なっており、彼自身「イサキオス・コムネノス・アンゲロス」と称することも多かった。
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王朝の成立
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ムハンマド・イブン・ズィヤード(Muhammad ibn Ziyad)は、ヤズィード・イブン=スフヤーン(ウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウィヤの兄にあたる)の子孫だった。814年に彼はその血筋のために拘束され、アッバース朝カリフ・マアムーンのもとに連行されたが、結局、助命された。監視下には置かれ、カリフに仕える大臣のアル・ファドル・イブン・サールの弟子になった。 3年後、イエメン太守からの報告がバグダッドに到着した。それは、アシュアリー派とアック部族(英語版)による攻撃を受けていると訴えていた。ファドルは、マアムーンに対して、敵対的な部族を抑えるために、有能なムハンマド・イブン・ズィヤードをティハーマ地方に送るように進言した。イブラヒム・アル・ジャザールと呼ばれる指導者に従うアリー派が、イエメンをアッバース朝の支配から切り離そうとしていたため、状況は深刻だった。ムハンマド・イブン・ズィヤードは、アリー派の宿敵の血筋であり、その任務にふさわしい存在だった。ハッジを行った後、ムハンマドはホラーサーン族の兵士からなる軍をともなって南下してイエメンに進軍し、818年にそこに到着した。彼は現地の部族と数々の戦いを経て、翌年にはティハーマ低地を支配した。
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