王朝の存続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 06:42 UTC 版)
「ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の記事における「王朝の存続」の解説
1399年6月22日、ヤドヴィガは長女エルジュビェタ・ボニファティカを出産したが、難産がたたって母子ともに亡くなった。ヤドヴィガの死により夫ヴワディスワフ2世のポーランド王位は不安定になったが、ヤドヴィガに代わってポーランド王統を継承する有力なライバルがいなかったため、王位を死ぬまで保持し続けた。カジミェシュ3世には娘アンナがおり、ヴワディスワフ2世はその娘アンナ・ツィレイスカと再婚し、王女ヤドヴィガをもうけた。しかし、「王朝」の血を引くこの王女は1431年に父の4番目の妻ゾフィア・ホルシャンスカに毒殺されたといわれるが、その原因はリトアニア人のゾフィアの産んだ息子より、「王朝」の系譜を引くヤドヴィガに王位継承の優先権があると一部の貴族たちが見做していたことだったされる。 またヤドヴィガの姉の夫、ハンガリー王ジギスムントは、カジミェシュ3世の孫娘エリーザベトを母としている関係で、クヤヴィ公国の相続権も有しており、ポーランド王位につく資格は十分にあった。しかしポーランドの貴族たちはジギスムントを嫌っており、彼が王と認められる余地はなかった。また、彼の異母兄の皇帝ヴェンツェルもヴワディスワフ1世の玄孫に当たることからポーランド王となる資格を持っていたが、嗣子の無いまま1419年に死去している。ピャスト家の男系子孫の中で「王朝」に最も血筋が近いのはマゾフシェ公家の人々であるが、その一員であるシェモヴィト4世はヤドヴィガとの結婚に失敗していた。ピャスト家で残るもう一方のシロンスク公家の人々は、14世紀後半までにボヘミア王国の封臣となっており、ポーランド王国との関係が薄くなっていた。
※この「王朝の存続」の解説は、「ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の解説の一部です。
「王朝の存続」を含む「ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の記事については、「ヤドヴィガ (ポーランド女王)」の概要を参照ください。
- 王朝の存続のページへのリンク