中華思想の変容(世界観の変容)
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「万国公法」の記事における「中華思想の変容(世界観の変容)」の解説
華夷秩序の崩壊は、その思想的根拠たる中華思想にも変容を迫った。中国での『万国公法』の受容速度は、非常に緩慢であった。その理由としては、まず西欧列強に都合の良い運用(外圧正当化)がされたことによって、『万国公法』への根強い不信感が中国側に植え付けられ、その心理的抵抗からスムーズな受容がなされなかったという点が挙げられる。 次に『万国公法』翻訳の動機にも原因の一端がある。当初中国側の意識では、『万国公法』の翻訳によって中国がただちに国際法制約下に入ることを意味するものではなかった。中国側の認識では条約体制は、それまであった朝貢や互市といった華夷秩序の一部が変形したものとしか考えておらず、国際法もほんの一部分の特例に過ぎないと捉えていた。たとえば『万国公法』の翻訳認可を上奏した恭親王奕訢は、西欧列強側の外交要求を論破する根拠として『万国公法』を求めていたにすぎない。上奏文には以下のような箇所がある。 「 われわれの意見では、この外国の『律例』(後の『万国公法』)という書物は、中国の制度とつきあわせますと、もとよりぴたりと合うものではありませんが、役に立つところもございます。今年、プロイセンが天津でデンマークの船舶を拘留した事件で、われわれはひそかにこの『律例』にある文言を使って、プロイセン側と論争してみましたところ、プロイセン公使も即座に誤りを認めて、唯々諾々としたがいましたが、これなどその好例でございましょう。そこでわれわれは協議のすえ、銀五百両を支給して、刊行後は三百部をわが総理衙門に献呈するよう、申しつけることにいたしました。外国の駐在領事を説伏する方法が載っており、有益だからです。 」 —訳文は村田雄二郎編『新編原典中国近代思想史2 万国公法の時代』岩波書店、2010、24頁より 不平等条約における片務的最恵国待遇についても、当初は不平等であるという意識すらなく、「一視同仁」(中国はそれ以外の夷狄を平等に扱う)という儒教的観点から中華が夷狄に与える恩恵と考えていた。また、領事裁判権も「華夷分治」(中国とそれ以外の夷狄に対して別の法制を適用する)という観点から、唐や宋がアラビア商人の居留民に対して彼らの法(イスラム法)に基づく司法権を認めた先例と同じように各条約港における夷狄との紛争を避けるための手段として歓迎する意見すらあった。中国側の抱く中華思想的な国家概念には国家主権に相当するものが存在せず、代わりに王朝(体制)の永続性に重きが置かれていた。従って、不平等条約によってもたらされる国家主権の喪失や侵害が、王朝の存続に重大な支障を与えない限りは中国側にとっては許容範囲とされていたのである。 このように中華思想的な発想がすぐさま清朝首脳部から一掃されたわけではなく、むしろ中国を特別な存在として国際法の適用外であることを当然としていた。『万国公法』の翻訳を共に求めながら恭親王奕訢と訳者マーティンの思惑は、ひたすらすれ違っていたといえる。 しかしアロー戦争の後、欧米人たちが中国国内に植民地や租界を設け、貿易や布教のために内地へ進出するようになると様々な問題が持ち上がるようになった。たとえば教案というキリスト教が原因で発生する事件が、各地で頻発して中国側の地方官を苦悩させるようになり、それは海岸線から遠く離れた任地の地方官といえど例外ではなかった。チベット方面から訪れる欧米人もいたためである。このようなトラブルでは、常に国際法や条約を楯に有利に事を運ぼうとする列強との交渉に、中国官僚は神経を尖らせる必要があった。このような行政上の苦悩が『万国公法』受容の下地となっていった。 また徐々に南京条約をはじめとする諸条約は天朝が夷狄に与える恩寵であるというよりも、むしろ不平等条約であるということも意識されるようになり、その改正が外交目標となっていった。中国が国際法圏外であることは非常に不利であるという認識が一部の改革派官僚や知識人の間に見られるようになる。国際法圏外であると自認することは、教案解決や条約改正のテーブルにつくことを自ら阻害した。外交官として活躍した薛福成は、『万国公法』を全国の地方官に広く配布することを提言し、「中国の公法の外に在るの害を論ず」という論説を発表している。 中国を国際法下に位置づけようとする外交的努力は、やがて西欧諸国の中に夷狄とは異なる「文明」的な要素を見出させた。それまで西欧列強が中華思想的に見て夷狄と断定されていたのは、礼や徳よりも力や利を追求することに重きをおき、無秩序に争いをしかけるというイメージが先験的にあったためである。しかし『万国公法』を読むことによって、あるいは駐在公使として直接海外に赴く人が増えたことで、西欧諸国間にも徳に基づくルールが存在するのだという認識が徐々に広まっていった。すなわち「万国公法」の「公」とは、諸国家よりも上位にある、公平かつ公正な徳であって、まさにそれ故に普遍的なルールとして受け取られたのである(茂木2000)。そうした国際法を肯定的に捉える受容は、洋務運動時期にはまだ少数であったが、それは中国を唯我独尊的な存在と自認する中華思想とそれに基づく華夷秩序が動揺し、変化させられていく契機の一つだったといえる。『万国公法』の存在は中国を中華思想的観念から脱し、万国の中の一国であるという認識へと向かわせるのに大きな役割を果たした。
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