王朝の成立、カスティーリャとレオンの分裂
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「ブルゴーニュ朝 (カスティーリャ)」の記事における「王朝の成立、カスティーリャとレオンの分裂」の解説
カスティーリャ=レオン王アルフォンソ6世は「ヒスパニア皇帝」を称したほど強大な覇権を握った人物だったが、息子に先立たれて女子しか残っておらず、ヒメネス朝最後の男系男子となった。1109年にアルフォンソ6世が死去すると嫡子であるウラカが女王となり、1126年にウラカが死去すると、最初の夫であるイヴレーア(アンスカリ)家出身のガリシア伯ライムンドとの息子アルフォンソ7世が王位に就く。これがブルゴーニュ朝の起こりである。 アルフォンソ7世も祖父同様に「ヒスパニア皇帝」として周囲の国々に宗主権を行使しようとした。しかし、アルフォンソ6世の庶子でウラカの異母姉妹であるテレサがポルトゥカーレ伯エンリケ(カペー系ブルゴーニュ家出身)との間にもうけた息子アフォンソが1139年にポルトガル王として即位し実質的に独立を果たしたことや、ムワッヒド朝の攻勢の前に実質的な影響力を失った。1157年にアルフォンソ7世が死去すると、長男のサンチョ3世がカスティーリャ王、次男のフェルナンド2世がレオン王となり、王国は分割された。 サンチョ3世の息子アルフォンソ8世はアラバ、ビスカヤ、ギプスコアを制圧し、一時はガスコーニュ地方も支配下に置いた。1179年にはアラゴン王国とカソーラ条約(英語版)を結ぶことで両国の国境を定めている。そして、1212年にナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝に壊滅的な打撃を与えた。 他方、フェルナンド2世の息子アルフォンソ9世はヨーロッパ初とも言えるコルテス(身分制議会)を召集し、アルフォンソ8世の娘ベレンゲラと結婚している。
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