晋王朝の成立とは? わかりやすく解説

晋王朝の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:08 UTC 版)

呉の滅亡 (三国)」の記事における「晋王朝の成立」の解説

263年、魏の実権掌握していた司馬昭は、鍾会鄧艾派遣して蜀漢を滅ぼすことに成功し司馬氏勢力一段と強まった司馬昭はこの機会に呉の制圧をも目論んだが、鍾会姜維が蜀の地で反乱起こして鄧艾を含む数多く将士失い呉を滅ぼすための十分に強大な水軍保持欠けていた上、蜀漢滅亡後混乱便乗して永安攻めてきた呉軍追い返すので精一杯だった。一方で、呉の交州呂興反乱起こし、魏に救援求めたため、魏は元蜀漢の将である霍弋派遣させた。呂興はまもなく内輪もめ殺されたが、霍弋引き続き交阯太守派遣し交州南方における魏、そして晋の橋頭堡となった。 この状況司馬昭は、即時開戦ではなく、まず外交によって呉を威圧しようとした。そこでまずは国内慰撫努め国力蓄えた。さらに、降伏した蜀漢後主劉禅安楽公に、蜀漢から魏に降伏した重臣達もそれぞれ侯に封じ益州の地を安定化させることで、呉の人心買おうとした。 264年3月司馬昭晋王即位した10月司馬昭は呉に使者派遣し蜀漢滅亡戦果アピールした上であわよくばそのまま呉を屈服させようとした。265年8月病没したため、子の司馬炎相国地位晋王の位を継承し併せて魏の朝廷実権掌握した同年12月元帝から禅譲を受け、国号を晋に改めた歴史上西晋と呼ぶ)。 一方の呉は孫権治世晩年から後継者争い発生し国力低下していった。第3皇帝孫休時代に、いったん落着き取り戻しかけたが、交州離反蜀漢滅亡窮地に立たされた。264年皇帝となった孫晧は、より強大となった魏への対応を迫られた。孫晧は魏の使者対し、自ら皇帝と称さず下手に出ることで矛先避けようとした(魏・晋にとって、孫晧はあくまで呉王であり、皇帝僭称者に過ぎない)。司馬昭にとっても禅譲目前にした時点では、孫晧返礼十分な外交的成果となった。しかし晋が成立すると、孫晧司馬昭弔問名目使者遣わした丁忠に晋を与しやすしと進言されたのを機に一方的に外交打ち切った孫晧は晋への北伐企図する一方享楽耽り酒色溺れ宮殿造営などの土木工事行い諫める忠臣らを殺したため、怨嗟の声は上は朝廷官人から下は民衆にまで広がった

※この「晋王朝の成立」の解説は、「呉の滅亡 (三国)」の解説の一部です。
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