晋軍での台頭とは? わかりやすく解説

晋軍での台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 04:48 UTC 版)

楊愛源」の記事における「晋軍での台頭」の解説

農民家庭生まれる。1910年宣統2年)、保定陸軍軍官学校入学した1914年民国3年)冬に第1期歩兵科卒業している。 卒業後は直ち山西戻り閻錫山率いる晋軍(山西軍)に加入した1917年民国6年8月、第1混成旅第1団団長に、1924年民国13年)には、第6旅旅長に昇進している。その後も、馮玉祥率い国民軍との戦い経て1926年民国15年)、晋綏軍第6師師長任命される1927年民国16年春に第2軍軍長となった同年6月閻錫山北方国民革命軍総司令任じられた際にも、楊愛源引き続き第2軍軍長つとめた。そして張作霖率い奉天派の軍と戦って軍功をあげている。1928年民国17年)、国民政府軍委員会委員第3集団軍第3軍団総指揮任じられ石家荘北京天津攻略貢献している。同年11月、この功績もあって、察哈爾省政府主席任命された。 1930年民国19年4月閻錫山らが蔣介石打倒目指し中原大戦起こすと、楊愛源は副指揮として4箇軍を統率した。しかし、反蔣介石軍は敗北に終わる。これにより一時日本への亡命強いられた閻錫山は、楊愛源徐永昌に晋綏軍の後事託し楊愛源徐永昌はこれを縮小再編する事務あたった1931年民国20年1月楊愛源は第34軍長転じている。8月閻錫山山西省復帰すると、楊愛源は晋綏軍事整理委員会主任委員任じられ、晋綏軍の再建強化取り組んでいる。9月楊愛源山西清郷督弁も兼任した1935年民国24年)からは、省内の全ての公務員中学校教師学生軍事訓練実施している。

※この「晋軍での台頭」の解説は、「楊愛源」の解説の一部です。
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