晋陽の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/30 05:09 UTC 版)
晋陽の戦い | |
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戦争:春秋戦国時代 | |
年月日:紀元前455年 - 紀元前453年5月8日[1] | |
場所:晋陽 | |
結果:趙氏の大勝、智氏の滅亡 | |
交戦勢力 | |
趙氏 | 智氏 魏氏 韓氏 |
指導者・指揮官 | |
趙襄子 | 智瑶 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
晋陽の戦い(しんようのたたかい)は、貞定王14年(紀元前455年)に発生した戦い。晋の六卿の智氏の当主の智瑶(智伯)と趙氏の趙襄子(趙無恤)や韓康子(韓虎)・魏桓子(魏駒)が趙氏の本拠の晋陽で戦った。智瑶は殺され、智氏は滅亡した。
概要
春秋時代の末期、智襄子は晋の六卿の智氏の当主として政権を手にしていた。ある時六卿の韓康子・魏桓子・趙襄子に領地の割譲を要求した。韓康子と魏桓子は脅しに屈して領地の一部を割譲したが、趙襄子は拒絶した。
貞定王14年(紀元前455年)、智襄子と韓康子・魏桓子は出兵した。智氏・韓氏・魏氏の三卿同盟軍は趙氏を攻撃した。趙襄子は敗退し晋陽城に籠城した。
貞定王16年(紀元前453年)、智襄子は晋水(汾水)の水で晋陽城を水攻めにした。城内では疫病が流行り、また飢えのため子供たちを取り換えて人肉を食らう有様であった[2][3][4]。
趙氏は滅亡の危機に陥り、趙孟談を韓氏・魏氏に派遣した。「唇(趙氏)亡ぶれば、則ち歯(韓氏・魏氏)寒し、智襄子は強欲な男であり、趙が滅ぼされた後には今度は貴公らの番である」と述べた[5][2]。韓康子も魏桓子も同様の危惧を抱いており、密約を結んで三氏共同で智氏を滅ぼすことにした。
韓・魏の両軍は堤防を決壊させ、智氏の軍営に水を流した。同時に趙軍も城より打って出た。智軍は壊滅し智襄子は捕虜となり、殺された。智襄子の死後、趙襄子は智襄子の頭蓋骨に漆を塗って杯とし、さらしものにしたという。智氏は滅亡した。晋陽の戦いにより六卿は韓氏・魏氏・趙氏の三家となり三晋の独立を招くことになった。
脚注
晋陽の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:24 UTC 版)
数年後、智瑶は魏氏・韓氏・趙氏に所領の割譲を要求した。魏氏の当主の魏駒(魏桓子)と韓氏の当主の韓虎(韓康子)は恫喝に屈して所領の一部を割譲したが、趙氏の当主の趙無恤(趙襄子)はこれを拒絶。智瑶は趙氏を滅ぼすために兵を発し、智瑶の要請を受けた魏駒・韓虎も兵を率いて従軍した。 智氏・魏氏・韓氏の連合軍を率いた智瑶は趙氏の本拠地である晋陽を攻めた(晋陽の戦い)。晋陽の守りが堅いことを知った智瑶は水攻めを決行。戦いが始まって一年が経ったころには晋陽の食糧は底をつき、ついには落城寸前となった。
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晋陽の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:24 UTC 版)
後に、晋の六卿の中で最大の勢力を誇っていた智氏の当主・智瑶(智伯・智襄子)が、魏氏の当主・魏駒(魏桓子)と韓氏の当主・韓虎(韓康子)の勢力を率いて、無恤の本拠地晋陽に攻め込んで来た(晋陽の戦い)。 智瑶の水攻めで一時は落城寸前まで追い込まれるが、魏駒と韓虎に使者を派遣して「智瑶は強欲なので私が(智瑶に)滅ぼされた後は貴公らの番であろう」と述べて内応させることに成功し、大逆転で智瑶を敗死させた。 紀元前453年の智氏の滅亡により、これ以降晋は事実上に趙・魏・韓に三分された。これをもって、戦国時代の幕開けとなる。ちなみに智襄子を滅ぼした後に、智襄子の旧臣豫譲から2度も暗殺されそうになるが失敗に終わり、豫譲は無恤の前で自害した。この様子は『史記』の「刺客列伝」に記されている。
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