六 (国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/18 14:22 UTC 版)
不明 - 前622年 | |
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国姓 | 偃姓 |
爵位 | 子爵 |
国都 | 六 (安徽省六安市金安区) |
滅亡原因 | 楚の穆王により併合 |
史書の記載 | 『春秋左氏伝』 (文公5年) |
周朝諸侯国一覧 |
六(りく[1]、ピン音:lù)は、周の時代に淮河流域にあった諸侯国、皋陶の後裔で、春秋時代後期には楚の付庸国となっていて、楚の穆王に滅ぼされた。
郭沫若の「両周金文辞体系考釈」では、西周青銅器の銘文に出現する「録」及び「録伯」は、後の春秋時代の六であるとしている。西周時代の周王が録伯に淮夷に対する防衛警備を命令した史実が[2]、青銅器の銘文に記録されている。
春秋時代に楚が隆盛となり、六は楚の付庸国と成り下がった。「春秋・文公5年」(紀元前622年)の記載で、六は楚に滅ぼされたとある。「春秋左伝」での補足で、これは六が楚に背き東夷と親交を結んだ結果であるとしている。同じ年、楚は現在の河南省信陽市固始県の蓼を滅ぼした。両国の滅亡は、魯の大夫臧辰(臧文仲)に皋陶(庭堅)の後裔は凋落してしまったと嘆かせた[3]。
注意に値することとして、『史記』巻14「十二諸侯年表」の記載では楚の成王惲26年「六・英を滅ぼす」とあり、楚の穆王商臣4年では「六・蓼を滅ぼす」とある。後者は上に述べたように『春秋』経伝記載の穆王が六・蓼の両国を滅ぼすということであるが、『史記』巻40「楚世家」では成王26年、英を滅ぼすとあるのみで、六を滅ぼすとの記載がない。
脚注
六国
「六 (国)」の例文・使い方・用例・文例
- 四六時中お金のことについて彼女が文句を言うのは本当に気がめいる
- 第六感で彼とは離れていようと思った
- Xが六十八回も続いた
- 百四十六名が秋のひと時を過ごしました
- 国家試験合格者が全体の六割以上を占める
- 二年前、六十二歳で父が亡くなった
- それはその起源を紀元前六世紀にまで遡ります
- 六本木にはハイセンスな店がたくさんある。
- 六本木ヒルズはどこで降りたらいいですか。
- EXシアター六本木前です。降りるときに教えてあげます。
- 六つ子の一人というのはつらいものだ。
- カップ六つ組
- 彼女は四六時中パパラッチに追いかけられて苛立っていたようだ。
- 昨日生まれた六つ子の状態は安定している。
- 雇用者は三六協定なしに、被雇用者に残業をさせることはできない。
- 民法第733条は「女は前婚の解消又は取消しの日から六箇月を経過した後でなければ再婚をすることができない」と待婚期間を定めている。
- 六高山の向こうに
- 私の家は六人家族です。
- 五月の終わりと六月の初めにこれらの部品を出荷しました。
- 五人か六人の生徒と共に家に住みたいです。
六_(国)と同じ種類の言葉
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