鄢・郢の戦いとは? わかりやすく解説

鄢・郢の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/20 09:21 UTC 版)

鄢・郢の戦い

鄢郢の戦いが起きた江陵
戦争春秋戦国時代
年月日紀元前279年 - 紀元前278年
場所:鄧・鄢・西陵・郢至竟陵
結果の大敗、の陥落、国力の大低下
交戦勢力
指導者・指揮官
白起 頃襄王
戦力
不明 数十万人[1]
損害
数万[2] 不明
戦争

鄢・郢の戦い(えん・えいのたたかい)は、紀元前279年から紀元前278年の将軍白起を攻め、楚の国都(現在の湖北省荊州市荊州区)を落とした戦い。楚の洞庭湖の周囲の水沢地帯、長江の南や北の安陸(現在の湖北省孝感市安陸市雲夢県一帯)にいたるまでの広大な土地を奪取した。この戦いで楚の国力は大損した。

背景

の関係は、張儀によって楚が欺かれて以来良いものではなかった。伊闕の戦いで秦が大勝を得て以来、楚の頃襄王は秦の強大さを畏れ、秦に改めての講和を求めた。紀元前292年、楚の頃襄王は使者を秦国に送り、秦の王女を娶らせ、秦楚両国の講和を結ばせた[3]。それ以来、両国は融和な関係を維持してきた。紀元前285年、秦の昭襄王と楚の頃襄王は宛(現在の河南省南陽市宛城区一帯)で会見し、両国の平和を誓った。紀元前283年、両国の国君は楚の鄢城(現在の湖北省襄陽市宜城市南東)と秦の穣(現在の河南省南陽市鄧州市)で会見した[4]

紀元前281年、楚の頃襄王は弱い弓と細い弓で、飛んでいるを射る人を召抱えた。その人は楚の頃襄王に自分の射る雁は小さいものとして、王が射止めるべきものは諸侯と提言した。楚の領土は四方に五千里、武装している兵は百万人の万乗の国といい、楚は秦を討つことで覇者になれるとした。楚の頃襄王は父の懐王が秦に幽閉されたまま死んだという屈辱を思い出し、秦と断交することを決定した。また各国に使者を派遣し合従の盟約を締結し、秦を攻撃しようとした。秦の昭襄王はその動きを察知し、楚に出兵することを決定した[5]

紀元前280年、秦将司馬錯兵を集結し、隴西郡より出兵し、楚の黔中郡を奪った。楚の頃襄王は上庸(現在の湖北省十堰市竹山県南東)と漢江の北の土地を秦に割譲した[6][7]紀元前279年、全力を以て対楚戦争を行う為に、秦の昭襄王は恵文王と澠池(現在の河南省三門峡市澠池県)で修好し、両国は一時休戦した[8]

鄢郢の戦いの秦の総大将白起

鄢・郢の戦い

この当時の楚の国内政治は腐敗していた。楚の頃襄王は国政を顧みず、大臣は傲り、嫉妬しあい、功を争った。佞臣が政権を掌握し、賢良な忠臣は排斥を受けた。その結果、国内の民心も離れ、都市は年々荒廃していった。白起は秦楚両国の形勢を分析し、直接楚の中枢を陥す策略を採用した。紀元前279年、数万の軍を率いて、漢江に沿って東下した。沿岸の主要拠点を攻め取った。白起は秦軍に橋梁を排除して、船を焼き払い、帰路を断った。これは決死の戦いの覚悟を決めるためであった。楚軍は本土での戦いであり、兵は自分の家族を思い、戦意が低かった。秦軍の猛攻に反撃できず、撤退した[9]。秦軍は長距離を直行し、迅速に漢水流域の要地鄧城中国語版(現在の湖北省襄陽市樊城区北西)を攻め取った。楚の別都鄢城へ向かった[10]。鄢城は楚の国都の郢の間近であり、楚は重兵を集結させ、秦軍の南下を阻止した。秦軍はなかなか楚の防壁を抜くことができなかった。白起は蛮河中国語版河水従西山長谷自城西流向城東の有利な条件を利用した。鄢城の西に百里の位置にを築き、水を蓄え、長い河を造り鄢城まで通した。そして、河を壊し鄢城に水を流した。鄢城の北東角が潰破して、城中の軍民は数十万人が淹死した[1]。鄧城・鄢城が落ち、楚人が大量に死亡したため、白起は罪人を赦免して両城に移した[10]。また軍を率いて西陵(現在の湖北省武漢市新洲区西)を攻め取った[11]

紀元前278年、白起は再次出兵して、楚を攻めた。楚の国都郢を陥落させて、先王の陵墓がある夷陵(現在の湖北省宜昌市夷陵区)を焼き払った。兵を東に向かわせ竟陵(現在の湖北省潜江市北東)に至り、楚の頃襄王は陳(現在の河南省周口市淮陽区)への遷都を余儀なくされた[12]。この戦いで秦は楚の洞庭湖の周囲の水沢地帯・長江の南や北の安陸の大片の土地を占領した[13][14]。そこに南郡を置き、白起は武安君に受封された[15]。愛国詩人屈原は楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江に入水自殺した[16]

戦後

鄢・郢の戦いは楚の国力を大きく損い、秦は大戦果を挙げた。紀元前277年、秦の昭襄王は白起を総大将、蜀郡郡守張若中国語版を副将に任命し、楚の巫郡中国語版と黔中郡を攻め取った[注 1][17][18]。翌年、楚の頃襄王は残兵十余万人を集めて巴東郡の十五城邑を奪還し、秦の攻撃を防ぐために郡に併合した[19]華陽の戦い後、春申君は秦の昭襄王に書を送り、秦と楚の交戦はを壮大にするものと説いた。春申君の計らいにより秦の昭襄王と楚は改めて盟を結び、休戦した[20]

脚注

注釈

  1. ^ 《史記・巻五・秦本紀》の記載には「(秦昭襄王)二十七年,司馬錯発隴西,因蜀攻楚黔中,抜之」。期間黔中郡等地可能被楚国奪回,所以才出現該記載。

引用

  1. ^ a b 《水経注・巻二十八・沔水中》:夷水又東注于沔,昔白起攻楚,引西山長谷水,即是水也。旧堨去城百許里,水従城西,灌城東,入注為淵,今熨斗陂是也。水潰城東北角,百姓随水流死于城東者,数十万,城東皆臭,因名其陂為臭池。
  2. ^ 《史記・巻七十六・平原君虞卿列伝》:白起,小豎子耳,率数万之衆,興師以与楚戦,一戦而挙鄢郢,再戦而燒夷陵,三戦而辱王之先人。
  3. ^ 《史記・巻四十・楚世家》:(楚頃襄王)六年,秦使白起伐韓于伊闕,大勝,斬首二十四万。秦乃遺楚王書曰:“楚倍秦,秦且率諸侯伐楚,争一旦之命。原王之飭士卒,得一楽戦。”楚頃襄王患之,乃謀復与秦平。七年,楚迎婦于秦,秦楚復平。
  4. ^ 《史記・巻四十・楚世家》:(楚頃襄王)十四年,楚頃襄王与秦昭王好会于宛,結和親…十六年,与秦昭王好会于鄢。其秋,復与秦王会穣。
  5. ^ 《史記・巻四十・楚世家》:(楚頃襄王)十八年,楚人有好以弱弓微繳加帰雁之上者,頃襄王聞,召而問之…頃襄王因召与語,遂言曰:“夫先王為秦所欺而客死于外,怨莫大焉。今以匹夫有怨,尚有報万乗,白公・子胥是也。今楚之地方五千里,帯甲百万,猶足以踴躍中野也,而坐受困,臣竊為大王弗取也。”于是頃襄王遣使于諸侯,復為従,欲以伐秦。秦聞之,発兵来伐楚。
  6. ^ 《史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)二十七年,錯攻楚…又使司馬錯発隴西,因蜀攻楚黔中,抜之。
  7. ^ 《史記・巻四十・楚世家》:(楚頃襄王)十九年,秦伐楚,楚軍敗,割上庸・漢北地予秦。
  8. ^ 《史記・巻十六・六国年表》:(趙恵文王)二十年,与秦会澠池。
  9. ^ 《戦国策・巻三十三・中山策・昭王既息民繕兵》:武安君曰:“是時楚王恃其国大,不恤其政,而群臣相妒以功,諂諛用事,良臣斥疏,百姓心離,城池不修,既無良臣,又無守備。故起所以得引兵深入,国倍城邑,発梁焚舟以専民,以掠于郊野,以足軍食。当此之時,秦中士卒,以軍中為家,将帥為父母,不約而秦,不謀而信,一心同功,死不旋踵。楚人自戦其地,咸顧其家,各有散新,莫有闘志。是以能有功也。”
  10. ^ a b 《史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)二十八年,大良造白起攻楚,取鄢・鄧,赦罪人遷之。
  11. ^ 《史記・巻十五・六国年表》:(楚頃襄王)二十年,秦抜鄢・西陵。
  12. ^ 《史記・巻七十三・白起王翦列伝》:其明年,攻楚,抜郢,燒夷陵,遂東至竟陵。楚王亡去郢,東走徙陳。
  13. ^ 《韓非子・初見秦》:秦与荊人戦,大破荊,襲郢,取洞庭・五渚・江南。荊王君臣亡走,東服于陳。
  14. ^ 《睡虎地秦簡・編年紀》:(秦昭襄王)廿九年,攻安陸。
  15. ^ 《史記・巻七十三・白起王翦列伝》:秦以郢為南郡。白起遷為武安君。
  16. ^ 《史記・巻八十四・屈原賈生列伝》:(屈原)于是懐石遂自汨羅以死。
  17. ^ 《史記・巻七十三・白起王翦列伝》:武安君因取楚,定巫・黔中郡。
  18. ^ 《史記・巻五・秦本紀》:(秦昭襄王)三十年,蜀守若伐楚,取巫郡,及江南為黔中郡。
  19. ^ 《史記・巻四十・楚世家》:(楚頃襄王)二十三年,頃襄王乃収東地兵,得十余万,復西取秦所抜我江旁十五邑以為郡,距秦。
  20. ^ 《史記・巻七十八・春申君列伝》:歇乃上書説秦昭王曰…王破楚以肥韓、魏于中国而勁斉…昭王曰:“善。”于是乃止白起而謝韓・魏。発使賂楚,約為与国。

鄢・郢の戦い

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戦国時代 (中国)」の記事における「鄢・郢の戦い」の解説

紀元前292年白起司馬錯が魏を攻め大小61城を落とした紀元前278年攻め、鄢・郢の戦いで首都郢を落とし南郡置いたこのためは陳に遷都した。

※この「鄢・郢の戦い」の解説は、「戦国時代 (中国)」の解説の一部です。
「鄢・郢の戦い」を含む「戦国時代 (中国)」の記事については、「戦国時代 (中国)」の概要を参照ください。

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