丹陽・藍田の戦いとは? わかりやすく解説

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丹陽・藍田の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/30 14:49 UTC 版)

丹陽・藍田の戦い
戦争丹陽・藍田の戦い
年月日紀元前312年
場所:丹陽(現在の湖北省枝江市[1])・藍田(現在の陝西省藍田県
結果軍の勝利
交戦勢力
秦軍
指導者・指揮官
魏章
樗里疾[2]
屈匄
逢侯丑
戦力
損害
死者80000人[3]

丹陽・藍田の戦い(たんよう・らんでんのたたかい)は、中国の戦国時代に丹陽・藍田において起こった軍と軍の間の戦いである。

経緯

紀元前313年、秦の張儀が楚の懐王と面会し、秦が商於の地方600里を割譲することを条件に、楚にと断交するよう要請した。懐王はこの条件を受け入れ、斉との同盟を破棄した。しかし懐王が一将軍を派遣して土地を受け取りに行かせると、張儀は商於6里を割譲するのが条件だったと言い張った。懐王は秦を攻撃する軍を発した[4]

紀元前312年春、魏章率いる秦軍と屈匄率いる楚軍が丹陽で戦い、秦軍は楚軍を撃破した。楚の武装した兵士80000人が斬られ、楚の大将軍の屈匄や裨将軍の逢侯丑ら70人あまりが捕らえられ、漢中郡が奪取された。懐王は激怒して、国中の兵を動員して再び秦を襲ったが、藍田で敗れた。が楚の敗戦を聞いて、楚を攻撃し、鄧にまで達した。楚軍はこれを聞くと、兵を退いて帰還した[5]

脚注

  1. ^ 史記集解』張儀列伝所引徐広は「丹陽在枝江」とし、『史記会注考証』張儀列伝は「丹陽今河南内郷県」とする。
  2. ^ 史記』秦本紀昭王十三年条は「庶長章撃楚於丹陽、虜其将屈匄」とし、同書樗里子列伝は「助魏章攻楚、敗楚将屈匄、取漢中地」とする。
  3. ^ 『史記』秦本紀昭王十三年条に「斬首八萬」とし、同書楚世家に「斬甲士八萬」とする。
  4. ^ 『史記』楚世家および張儀列伝
  5. ^ 『史記』楚世家

参考文献




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