函谷関の戦い_(紀元前241年)とは? わかりやすく解説

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函谷関の戦い (紀元前241年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/02 05:26 UTC 版)

函谷関の戦い
戦争函谷関の戦い
年月日紀元前241年
場所函谷関
結果の勝利
交戦勢力




指導者・指揮官
呂不韋?
蒙驁?
龐煖
考烈王
春申君 
春秋戦国時代
春秋時代
戦国時代
秦の統一戦争
†はその国の滅亡 表示

函谷関の戦い(かんこくかんのたたかい)は、紀元前241年に発生した[注 1][注 2]の五国合従軍の合戦[2]。軍の配置や動員兵力等の戦闘の詳細は不明である[3]。この戦い以降、合従軍は起きることがなく、秦による六国併合が進んでいくこととなる。

過程

紀元前242年蒙驁を攻撃し、酸棗長平雍丘山陽など20城を奪い[4]東郡を置いた[2][5]。これによりを除く、五国とは国境を接するようになった[2]。おそらく、これが函谷関の戦いの発生の原因であると考えられている[2][6]

紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕は、秦を共同で攻撃するために合従軍を組んだ。楚の考烈王を縦長(総大将)とし、実務を春申君が執り仕切った[7]

合従軍は秦の寿陵[注 3]を取り、函谷関を攻撃した[8]

合従軍に対して、秦軍は函谷関で迎え撃った。全軍の総指揮を執ったのは、この時点で権力を握っていた相邦呂不韋と考えられている[2]。また、函谷関で秦軍の指揮を執った将軍は不明だが、過去の戦歴等を考慮すると蒙驁が指揮を執ったと考えてもおかしくないとされる[2][9]

また、今回の合従軍では以前(函谷関の戦い(紀元前318年)函谷関の戦い(紀元前298年)河外の戦い)とは異なり、函谷関を攻める軍以外の、別働隊を用意していた[10]。趙の龐煖が趙・楚・魏・燕の四国の精鋭部隊を率いて(現在の始皇帝陵の付近[9])を攻めたが、落とせなかった[11]。蕞は秦の国都咸陽にかなり近く、秦は滅亡の危機に陥っていた[5]

函谷関でも秦軍が攻撃すると、合従軍は敗走した[8]。その後、合従軍は与しなかったに目標を移して攻撃し、饒安(現在の河北省滄州市塩山県の南西)を占領して解散した[11]

『史記』の記述

この戦いの『史記』の記述は非常に少なく簡素である[3]

  • 秦始皇本紀』:(始皇)6年、韓・魏・趙・衛・楚が共同して秦を攻撃し、寿陵を取った。秦が出兵すると五国の兵は退いた。
  • 趙世家』:(悼襄王)4年、龐煖は趙・楚・魏・燕の四国の精鋭部隊を率いて秦の蕞を攻めたが落とせなかった。
  • 楚世家』:(考烈王)22年、諸侯と共に秦を討伐したが、不利となって撤退した。
  • 春申君列伝』:諸侯は秦の攻伐が止まないことを憂慮し、そこで互いに合従を結び、西の秦を討伐した。函谷関に到達した時、秦軍が出撃して攻撃すると諸侯の兵は全て敗走した。

影響

函谷関の戦いは、戦国時代で秦を攻撃した合従軍の最後の戦いだった。以降、六国は次第に秦に併合され、紀元前221年に秦は天下を統一した。

脚注

注釈

  1. ^ 龐煖率いる蕞攻めには参戦せず。
  2. ^ 史記・巻6・秦始皇本紀』ではとなっているが、燕の誤字だと考えられている[1]。 しかし同書では同年の戦後に秦が衛を攻めたとする記述が存在するため、誤字ではない可能性もある。
  3. ^ 『史記』呂不韋列伝によると孝文王華陽太后が合葬された陵墓が在るとされ、『史記正義』はかつては趙の常山に在る、もしくは雍州万年県の東北二十五里に在るとする。

出典

  1. ^ 島崎晋 2019, p. 81.
  2. ^ a b c d e f 島崎晋 2019, p. 79.
  3. ^ a b 島崎晋 2019, p. 80.
  4. ^ 仁志睦 et al. 2020, p. 53.
  5. ^ a b 鶴間和幸 2020, p. 98.
  6. ^ 鶴間和幸 2020, p. 100.
  7. ^ 史記・巻78・春申君列伝』:春申君相二十二年,諸侯患秦攻伐無已時,乃相与合縦,西伐秦,而楚王為縦長,春申君用事。至函谷関,秦出兵攻,諸侯兵皆敗走。
  8. ^ a b 史記・巻6・秦始皇本紀』:(始皇)六年,韓・魏・趙・衛・楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。
  9. ^ a b 仁志睦 et al. 2020, p. 12.
  10. ^ 仁志睦 et al. 2020, p. 37.
  11. ^ a b 史記・巻43・趙世家』:(悼襄王)四年,龐煖将趙・楚・魏・燕之鋭師,攻秦(蕞),不抜;移攻斉,取饒安。

参考文献




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