令尹として
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黄歇は考烈王よりその功績を認められて、令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12県を与えられ、春申君と号した。春申君はその元に食客を3千人集めて、上客は全て珠で飾った履を履いていたという。客の中には荀子もおり、春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。 紀元前258年、趙の首都邯鄲が秦によって包囲され、平原君が救援を求める使者としてやって来た。春申君はこれに応えて兵を出し、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。 紀元前248年、斉に接する重要な土地である淮北を直轄の郡にすることを考烈王に言上し、淮北の代わりに江東を貰い、かつての呉の城を自らの居城とした。『戦国策』によれば、これは趙の上卿(上級大臣)虞卿の献策を一部受け入れて、王族からの妬みや政治的影響を逸らすために、首都から遠い地に封地を遷したものと伝わる。その後、軍勢を動員して、魯を滅ぼした。 紀元前241年、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を率いて、秦を攻めたが、函谷関で敗退した(函谷関の戦い)。この失敗により、考烈王は春申君を責めて疎んじるようになる。 同年、春申君の提言により、楚は寿春へと遷都した。
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令尹として
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孫叔敖は民を教化してよく導いたので、楚では上下が和合し、政治は緩やかながらも禁じられたことは守られ、役人に奸邪な者はなく、物を盗む者はいなかった。 同時代の晋の士会は敵ながら孫叔敖の治世を指して「徳・刑・政・事・典・礼の六つが正しく行われている」と絶賛した。 ある時、荘王が貨幣が軽すぎるとして重いものに改めたが、人々はこれを不便がって孫叔敖に訴えた。孫叔敖はこのことを荘王に言上して元に戻した。 孫叔敖の業績を今に残す施設として、寿春近郊を流れる淮河に造成され、今も使用されている大型水利施設・芍陂(安豊塘)(かんがい施設遺産)があり、孫叔敖はこの施設で淮河の水を一帯に灌漑して農業生産量を上げている。
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