即墨の戦いとは? わかりやすく解説

即墨の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/03 13:30 UTC 版)

即墨の戦い

戦争:即墨の戦い
年月日紀元前284年 - 紀元前279年
場所即墨
結果の勝利、70余城を取り戻す
交戦勢力
指導者・指揮官
田単 楽毅
騎劫
戦力
不詳 不詳
損害
不詳 不詳
春秋戦国時代
春秋時代
戦国時代
秦の統一戦争
†はその国の滅亡 表示

即墨の戦い(そくぼくのたたかい)は、紀元前284年から紀元前279年発生したの名将楽毅即墨を攻めた戦闘。田単らの奮戦により即墨は落ちなかった。

背景

紀元前284年昭王楽毅を上将軍として、燕・の五国合従軍を統率させを攻撃させた。斉の湣王は田觸を将とし斉の全軍を率いた。斉軍主力は済水を渡河した。両軍は済水の西で決戦を行った。斉軍の士気は連年の戦争により、低くかった。兵士に死戦を行わせるために、湣王は先祖の墓を掘って兵士を殺すと脅したが、さらに兵士の士気が低下した。その結果、合従軍が進攻した時田斉軍は一瞬で壊滅状態となるほどの惨敗を喫した。田觸は逃亡し、副将の田達は残兵を率いて王都の臨淄に撤退した。斉軍の主力が壊滅したあと、楽毅は秦、韓の両軍を帰還させ、魏軍は宋の地を攻め、趙軍は河間を占領、燕軍は斉軍を追撃した[1][2][3]

この時、楚の頃襄王は斉を救うことを名目に淖歯を送りこんだ。淖歯はの湣王を殺し、斉に占領されていた淮北を取った[4]

楽毅は臨淄を攻略後善政を敷き、軍事規律を肯定し、略奪を厳しく禁止、残酷な法律や過酷な税を廃止し、民衆の支持を集めた。その後、軍隊を分割して、斉軍を完全に排除し、斉国の占領を拡大した[5]。燕軍は僅か六ヶ月で斉の七十余りの城を占領し、莒と即墨の両城だけが残った[6][7]紀元前283年、斉の大臣王孫賈らが淖歯を殺し、湣王の子の田法章を擁立し、襄王として即位した。襄王らは籠城し、燕軍に対して必死に抵抗した。

即墨の戦い

即墨では、楽毅の返り討ちに遭い大夫が戦闘で死亡した。即墨の軍隊と民間人は、田単に抵抗するように導かれ、双方は数年間戦った。楽毅は攻撃せずに、即墨を包囲戦に持ち込んだ。即墨の兵士と民間人は、大夫の死後、斉の公族でもある田単を将軍に推薦し、燕軍に抵抗した。この即墨の攻防戦は、「即墨の戦い[8][9]と呼ばれた。

1年間、燕軍は莒と即墨を包囲したが、落ちなかったために楽毅は攻城戦に切り替えた。燕軍を城から撤退させ九里離れたところに砦を築くようにするよう命じた。3年後も、2城は占領されなかった[10]

紀元前279年、燕の昭王が死に、子の恵王が王位を継いだ。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫を将軍として送った。このまま燕へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した[11]。騎劫は楽毅の戦略とは反対に、即墨への強制攻撃を命じた。しかし、斉の軍隊と民間人の抵抗が起きて、騎劫の攻撃は実を結ばなかった。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。

続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった[12]

城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。

次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった[13]

そこで田単は千頭のを用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた[14]

田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。

田単は首都の臨淄に戻ることができた斉の襄王に、功績を認められて、相国に任じられ夜邑に1万戸の加封を受け安平君に封じられた[15][16]

影響

即墨の戦いは、滅亡寸前の危機に陥っていた斉が国力を回復した戦いとなった。その結果、燕は繁栄から衰退に変わった。

脚注

  1. ^ 呂氏春秋 巻十五 慎大覽 權勳》:昌國君將五國之兵以攻齊。齊使觸子將,以迎天下之兵於濟上。齊王欲戰,使人赴觸子,恥而訾之曰:「不戰,必剗若類,掘若壟。」觸子苦之,欲齊軍之敗。於是以天下兵戰,戰合,撃金而卻之,卒北,天下兵乘之,觸子因以一乘去,莫知其所,不聞其聲。達子又帥其餘卒,以軍於秦周,無以賞,使人請金於齊王。齊王怒曰:「若殘豎子之類,惡能給若金?」與燕人戰,大敗,達子死,齊王走莒。燕人逐北入國,相與爭金於美唐甚多。此貪於小利以失大利者也。
  2. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:燕王悉起兵,以樂毅為上將軍。秦尉斯離帥師與三晉之師會之。趙王以相國印授樂毅,樂毅並將秦、魏、韓、趙之兵以伐齊。齊湣王悉國中之眾以拒之,戰於濟西,齊師大敗。樂毅還秦、韓之師,分魏師以略宋地,部趙師以收河間,身率燕師,長驅逐北。劇辛曰:「齊大而燕小,賴諸侯之助以破其軍,宜及時攻取其邊城以自益,此長久之利也。今過而不攻,以深入為名,無損於齊,無益於燕,而結深怨,後必悔之。」樂毅曰:「齊王伐功矜能,謀不逮下,廢黜賢良,信任諂諛,政令戾虐,百姓怨懟。今軍皆破亡,若因而乘之,其民必叛,禍亂內作,則齊可圖也。若不遂乘之,待彼悔前之非,改過恤下而撫其民,則難慮也。」
  3. ^ 史記 巻八十 樂毅列傳》:於是使樂毅約趙惠文王,別使連楚、魏,令趙啖説秦以伐齊之利。諸侯害齊湣王之驕暴,皆爭合從與燕伐齊。樂毅還報,燕昭王悉起兵,使樂毅為上將軍,趙惠文王以相國印授樂毅。樂毅於是並護趙、楚、韓、魏、燕之兵以伐齊,破之濟西。諸侯兵罷歸,而燕軍樂毅獨追,至於臨淄。齊湣王之敗濟西,亡走,保於莒。樂毅獨留徇齊,齊皆城守。樂毅攻入臨淄,盡取齊寶財物祭器輸之燕。燕昭王大悦,親至濟上勞軍,行賞饗士,封樂毅於昌國,號為昌國君。於是燕昭王收齊鹵獲以歸,而使樂毅復以兵平齊城之不下者。
  4. ^ 史記 巻四十六 田敬仲完世家》:四十年,燕、秦、楚、三晉合謀,各出鋭師以伐,敗我濟西(一)。王解而卻。燕將樂毅遂入臨淄,盡取齊之寶藏器。湣王出亡,之衛。衛君辟宮舍之,稱臣而共具。湣王不遜,衛人侵之。湣王去,走鄒、魯,有驕色,鄒、魯君弗内,遂走莒。楚使淖齒(二)將兵救齊,因相齊湣王。淖齒遂殺湣王而與燕共分齊之侵地鹵器(三)。附注(一)集解徐廣曰:「案其餘諸傳無楚伐齊事*。年表云楚取淮北。」(二)索隠淖音女教反。(三)正義鹵掠齊寶器也。...*然而燕召公世家亦指「秦、楚、三晉合謀以伐齊」,樂毅列傳則指「護趙、楚、韓、魏、燕之兵以伐齊,破之濟西」缺少秦,但秦本紀提及「(秦)尉斯離與三晉、燕伐齊,破之濟西」,對此《資治通鑑》整合為「樂毅並將秦、魏、韓、趙之兵以伐齊」,而楚將淖齒弑齊湣王。
  5. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:遂進軍深入。齊人果大亂失度,湣王出走。樂毅入臨淄,取寶物、祭器,輸之於燕。燕王親至濟上勞軍,行賞饗士,封樂毅為昌國君,遂使留徇齊城之未下者。
  6. ^ 史記 巻八十 樂毅列傳》:樂毅留徇齊五歳,下齊七十餘城,皆為郡縣以屬燕,唯獨莒、即墨未服。
  7. ^ 《史記》樂毅列傳指唯莒、即墨未下,燕世家云聊、莒、即墨未下;對此《戰國策》燕策註有鮑本指出後者是把田單勝騎劫後攻燕軍聊城一度不下之事混淆所致,並以齊策佐證。
  8. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:燕軍聞齊王在莒,并兵攻之。淖齒既殺湣王於莒,因堅守,距燕軍,數年不下。燕引兵東圍即墨,即墨大夫出與戰,敗死。城中相與推田單,曰:「安平之戰,田單宗人以鐵籠得全,習兵。」立以為將軍,以即墨距燕。
  9. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:初,燕人攻安平,臨淄市掾田單在安平,使其宗人皆以鐵籠傅車轊。及城潰,人爭門而出,皆以轊折車敗,為燕所禽;獨田單宗人以鐵籠得免,遂奔即墨。是時齊地皆屬燕,獨莒、即墨未下,樂毅及並右軍、前軍以圍莒,左軍、後軍圍即墨。即墨大夫出戰而死。即墨人曰:「安平之戰,田單宗人以鐵籠得全,是多智習兵。」因共立以為將以拒燕。
  10. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:樂毅圍二邑,期年不克,及令解圍,各去城九里而為壘,令曰:「城中民出者勿獲,困者賑之,使即舊業,以鎮新民。」三年而猶未下。
  11. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:頃之,燕昭王卒,惠王立,與樂毅有隙。田單聞之,乃縱反間於燕,宣言曰:「齊王已死,城之不拔者二耳。樂毅畏誅而不敢歸,以伐齊為名,實欲連兵南面而王齊。齊人未附,故且緩攻即墨以待其事。齊人所懼,唯恐他將之來,即墨殘矣。」燕王以為然,使騎劫代樂毅。樂毅因歸趙,燕人士卒忿。
  12. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:而田單乃令城中人食必祭其先祖於庭,飛鳥悉翔舞城中下食。燕人怪之。田單因宣言曰:「神來下教我。」乃令城中人曰:「當有神人為我師。」有一卒曰:「臣可以為師乎?」因反走。田單乃起,引還,東郷坐,師事之。卒曰:「臣欺君,誠無能也。」田單曰:「子勿言也!」因師之。毎出約束,必稱神師。乃宣言曰:「吾唯懼燕軍之劓所得齊卒,置之前行,與我戰,即墨敗矣。」燕人聞之,如其言。城中人見齊諸降者盡劓,皆怒,堅守,唯恐見得。單又縱反間曰:「吾懼燕人掘吾城外塚墓,僇先人,可為寒心。」燕軍盡掘壟墓,燒死人。即墨人從城上望見,皆涕泣,倶欲出戰,怒自十倍。
  13. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:田單知士卒之可用,乃身操版插,與士卒分功,妻妾編於行伍之間,盡散飲食饗士。令甲卒皆伏,使老弱女子乘城,遣使約降於燕,燕軍皆呼萬歳。田單又收民金,得千溢,令即墨富豪遺燕將,曰:「即墨即降,原無虜掠吾族家妻妾,令安堵。」燕將大喜,許之。燕軍由此益懈。
  14. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:田單乃收城中得千餘牛,為絳繒衣,畫以五彩龍文,束兵刃於其角,而灌脂束葦於尾,燒其端。鑿城數十穴,夜縱牛,壯士五千人隨其後。牛尾熱,怒而奔燕軍,燕軍夜大驚。牛尾炬火光明炫燿,燕軍視之皆龍文,所觸盡死傷。五千人因銜枚撃之,而城中鼓譟從之,老弱皆撃銅器為聲,聲動天地。燕軍大駭,敗走。齊人遂夷殺其將騎劫。燕軍擾亂奔走,齊人追亡逐北,所過城邑皆畔燕而歸田單,兵日益多,乘勝,燕日敗亡,卒至河上,而齊七十餘城皆復為齊。
  15. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:乃迎襄王於莒,入臨淄而聽政。襄王封田單,號曰安平君。
  16. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:「王亟殺此九子者以謝安平君,不然,國其危矣!」乃殺九子而逐其家,益封安平君以夜邑萬戸。

即墨の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)

戦国時代 (中国)」の記事における「即墨の戦い」の解説

即墨では、楽毅返り討ち遭い大夫戦闘死亡した即墨軍隊民間人は、田単抵抗するように導かれ双方数年戦った楽毅攻撃せずに、即墨包囲戦持ち込んだ即墨兵士民間人は、大夫死後、斉の公族でもある田単将軍推薦し、燕軍に抵抗した。この即墨攻防戦は、「即墨の戦い」と呼ばれた1年間、燕軍は莒と即墨包囲したが、落ちなかったために楽毅攻城戦切り替えた。燕軍を城から撤退させ九里離れたところに砦を築くようにするよう命じた3年後も、2城は占領されなかった。

※この「即墨の戦い」の解説は、「戦国時代 (中国)」の解説の一部です。
「即墨の戦い」を含む「戦国時代 (中国)」の記事については、「戦国時代 (中国)」の概要を参照ください。

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