即如院来報徳全居士についてとは? わかりやすく解説

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即如院来報徳全居士について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 05:15 UTC 版)

豊田正作」の記事における「即如院来報徳全居士について」の解説

安政3年(1856)11月4日の夜、小田原城下の鍋弦小路(なべつるこうじ)(小田原駅新幹線口近く)に住む藩士山崎五右衛門のところで、しめやかに法要営まれた。この日は10月20日逝去し二宮金次郎尊徳の、二七日ふたなぬか)にあたる。 尊徳重態の知らせ栢山届いて実弟二宮三郎左衛門波子夫人伯父古沢右衛門急きょ今市向かったのが10月14日ごろ。三郎左衛門らは19日今市着いて久々の弟との対面に尊徳も喜んだが、明くる朝容態急変して亡くなった22日通夜23日葬儀で、如来寺葬られた。26日初七日済ませた三郎左衛門らは、翌日早朝帰途についた江戸小田原への公私訃報何十通も預かっていた。小田原帰着11月3日山崎五右衛門は涙にむせんだ17年前天保10年小田原仕法中堅要員として藩から野州修行命じられ、「決心書」を作り50両を仕法のために差し出し生涯実行誓った小田原仕法数年後廃止され、尊徳との往来禁じられている。せめて小田原有縁の人をひそかに呼んで法事行い冥福祈ろう思いついた。 山崎五右衛門は、自分菩提寺である浄土宗三乗寺へおもむいて、住職に頼むと快く承知してくれた。問題故人法号で、訃報にはそれが載っていなかった。そこで如来寺にちなんで「如来院様」はどうかと、聞く住職宗門では遠慮の字でだという。翌日夕方住職弟子一人連れて山崎屋敷来て今日二七日御相即如来報徳全居士」ならどうかという。山崎先に来ていた豊田正作相談の上了承して法事を営んだ。 参会者は10程度豊田正作66)、栗原祐造、石川右衛門青木武右衛門75)、清水助次郎という微禄の者も先生に特にお世話になったからと参加した久野村政蔵下新田の小八もやってきた。重役の中、伊谷治部右衛門が、仏前餅菓子届けた作右衛門前々年11月すでに没し嗣子勇之助前年10月30歳若さ亡くなっていた。同家縁由大高郡内64)が「作右衛門勇之助亡霊兼ね心得」で参列した豊田正作はこの法事の席で一句詠んだありありと 道の光るや 冬の月 「誠明院功誉報徳中正居士」という正式の法名はまもなく知れ三乗寺は7月7日回向をそれで行った

※この「即如院来報徳全居士について」の解説は、「豊田正作」の解説の一部です。
「即如院来報徳全居士について」を含む「豊田正作」の記事については、「豊田正作」の概要を参照ください。

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