後期・呉越抗争とは? わかりやすく解説

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後期・呉越抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 04:30 UTC 版)

春秋時代」の記事における「後期・呉越抗争」の解説

一方、南の長江流域では呉・越という2つ新興勢力興っていた。呉は闔閭夫差2人君主名臣孫武伍子胥、越は君主勾践名臣范蠡の力により急速に勢力拡大した。呉は首都陥落させ、滅亡寸前追い込むほどの力を見せる。さらに越を撃破し服属させ、黄河流域進出して諸侯盟主の座を晋と争った。しかし、一旦屈服した越の入念な準備基づいた反撃により、呉は滅亡する。越も勾践死後振るわず、後に滅ぼされた。 完全な異民族中原覇者となったことで周王朝中心とする秩序無意味化したこと、呉越製鉄先駆地でこの頃から本格的に鉄器時代に入ること等から、呉越抗争直後から戦国時代とする説もある。 また晋では、紀元前453年智氏が魏・韓・趙の3氏の連合により滅ぼされる晋陽の戦い)。智氏旧領分け取りにしたことでさらに力をつけた3氏はそれぞれ魏・韓・趙の国を建てた。この3つ合わせて三晋とも呼ぶ。その後、魏・韓・趙の三国紀元前403年周王室より正式に諸侯として認められた(もっとも、この段階では晋も小諸侯に没落した形で紀元前376年まで存続している)。この時点をもって春秋時代は完全に終わり戦国時代に入る。 前後して、斉ではほぼ完全に田氏国政牛耳られ紀元前386年田和により簒奪され、太公望以来の斉は滅びた。これ以降の斉をそれまで区別して田斉とも呼ぶ。

※この「後期・呉越抗争」の解説は、「春秋時代」の解説の一部です。
「後期・呉越抗争」を含む「春秋時代」の記事については、「春秋時代」の概要を参照ください。

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