後期、国際的名声の確立
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「ヨハン・シュトラウス3世」の記事における「後期、国際的名声の確立」の解説
精力的な演奏旅行とレコーディング活動により、晩年のヨハン3世はその国際的名声と人気を大いに高めた。ヨハン3世自身も指揮者として獲得した高い評価に満足し、1928年1月にウィーンでこう述べている。 「 私が従事し……全面的に履行し、自身満足している天職は、ウィーンの音楽、なかでも私のすぐの先祖の不滅の音楽を、世界に紹介し、あるべき姿に解釈することです。 」 1931年8月1日、新しいウィーンの市立スタジアムでの野外コンサートに登場して、800人編成という巨大オーケストラを指揮した。5年後の1936年3月1日には、ウィーン楽友協会での「シュトラウス音楽の夕べ」を指揮し、いくつものヨーロッパ・ラジオ局から放送された。 ナチス・ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)した翌年の1939年1月9日、ヨハン3世はベルリンにおいて72歳で死去した。ヨハン3世の死をもって、祖父ヨハン1世のデビュー以来120年にわたって連綿と続いてきたシュトラウス一家の伝統が途絶えた。ちなみに、有名なウィーンフィル・ニューイヤーコンサートの歴史が始まったのは、偶然にもこの1939年の大晦日のことであった。 かつてヨハン3世がデビューした際に批判記事を載せた『ノイエ・フライエ・プレッセ』は、1939年1月16日付の死亡記事で次のように故人を称賛した。 彼とともに、ウィーン音楽を代表する使節は死んだ。彼は偉大さの証拠である謙虚さで、彼自身の創作的野心を措いて、偉大な先祖たちの作品に奉仕し、シュトラウスの音楽の指揮者として、世界に喜びと高揚とウィーンの霊感を与えた。
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