クシャーナ朝とは? わかりやすく解説

クシャーナ‐ちょう〔‐テウ〕【クシャーナ朝】

読み方:くしゃーなちょう

《「クシャナ朝」とも》⇒クシャン朝


クシャーナ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 17:30 UTC 版)

クシャーナ朝(クシャーナちょう、: Kushan: 貴霜)は、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系王朝である。日本語表記は一定せず、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝とも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 後漢書』西域伝では高附翕侯の代わりに都密翕侯が上げられている。
  2. ^ 翕侯(きゅうこう)とはイラン系遊牧民における“諸侯”の意。烏孫などにも見受けられる。ベイリによればイラン語で“統率者”の意で、E.G.プーリーブランクによればトハラ語で“国家”の意であるという。また、のちのテュルク系国家に見られるヤブグ(葉護:官名、称号)に比定されることもある[要出典]
  3. ^ 江上波夫は五翕侯を大月氏によって任命された月氏人戦士の封建諸侯であるとした[要出典]
  4. ^ 榎一雄は大月氏における五翕侯を大月氏によって任命された土着有力者とした[要出典]
  5. ^ クジュラ・カドフィセスによるカブール支配の確立は、彼が翕侯の地位についた後の出来事である。それはクジュラ・カドフィセスがヘルマエウスと共同で発行したコインの中にヤヴガ (Yavuga) という称号が刻まれている物があることから知られる[要出典]
  6. ^ プリニウスは当時インド人がローマの金を年間5千万セステルティウス持ち去っていると記しているが、これにはクシャーナ朝にもたらされた分も含まれているであろう[要出典]
  7. ^ ヴィマ・タクト (Vima takto) の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と読む説は確定的ではない[2]

出典

  1. ^ 小谷 1999, pp.101-111.
  2. ^ 山崎 2007, p. 139.


「クシャーナ朝」の続きの解説一覧

クシャーナ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)

アフガニスタンの歴史」の記事における「クシャーナ朝」の解説

紀元前1世紀前半大月氏傘下には貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)の他に四翕侯があったが、カドフィセス1世(丘就卻)が滅ぼしてクシャーナ朝を開いたカドフィセス1世は、カブーリスタン(カブール周辺)とガンダーラ侵攻し支配域とした。その子供のヴィマ・タクト時代にはインド侵攻し北西インド占領したカニシカ1世時代には、ガンジス川中流域インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となったカニシカ1世パルティア戦って勝利を収めた。 ヴァースデーヴァ1世サーサーン朝シャープール1世敗北しインドを失うと、その後サーサーン朝攻められ領土失いカブールのみとなったサーサーン朝バハラーム2世時代滅亡し、その領土サーサーン朝支配下クシャーノ・サーサーン朝となった

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クシャーナ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 03:47 UTC 版)

月氏」の記事における「クシャーナ朝」の解説

詳細は「クシャーナ朝」を参照 それから100余年、護澡城の貴霜クシャン)翕侯である丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が他の四翕侯を滅ぼして自立して王となり、貴霜王と号した。丘就卻は安息パルティア)に侵入し、高附(カーブル)の地を取ったまた、濮達国・罽賓国滅ぼし、その支配下置いた。丘就卻は80余歳で死ぬと、その子の閻膏珍(えんこうちん)が代わって王となる。閻膏珍は天竺インド)を滅ぼし将一人を置いてこれを監領したという。この政権はクシャーナ朝を指すものであり、丘就卻はクジュラ・カドフィセス、閻膏珍はヴィマ・タクト比定される。しかし中国ではそのまま大月氏呼び続けた

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クシャーナ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:55 UTC 版)

インドの歴史」の記事における「クシャーナ朝」の解説

詳細は「クシャーナ朝」および「ガンダーラ」を参照 マウリヤ朝滅亡後中央アジア大月氏から自立したクシャーナ朝が1世紀後半インダス川流域進出しプルシャプラペシャーワル)を都として2世紀カニシカ王カニシュカ王)のもとで最盛期迎えた。この王朝は、中国ペルシアローマをむすぶ内陸要地抑えており、「文明十字路としての役割果たしたこの頃仏教文化ギリシア美術結びつきガンダーラ美術成立した。クシャーナ朝は、3世紀サーサーン朝ペルシアシャープール1世による遠征受けて衰退し滅亡へ至った

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