大月氏とクシャーナ朝
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「中央アジアの美術」の記事における「大月氏とクシャーナ朝」の解説
紀元後1世紀から3世紀にかけて存続したクシャーナ朝のもとでは仏教文化が栄えた。クシャーナ朝の成立には、モンゴル方面から移動してきた遊牧民の大月氏が関わっている。大月氏の出自については、イラン系と言われるが、テュルク系、チベット系などとする説もある。中国の史書に「月氏」と表記されるこの民族は、モンゴル高原において別系統の遊牧民である匈奴と勢力を争っていた。紀元前2世紀半ば、匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)は月氏を破り、モンゴル高原を統一。月氏は天山山脈北方のイリへ追いやられ、そこをさらに追われて西方の西トルキスタンへ移動した。中国の史書では、月氏のうち、チベット方面へ移ったものを小月氏、西方へ移動したものを大月氏と称している。中国の史書には大月氏はバクトリアに五翕侯(きゅうこう)を置いて支配したとある。翕侯とは部族あるいは諸侯の意であるが、五翕侯のうちの1つ、中国で言う貴霜翕侯が紀元後1世紀中頃に強大化し、統一王朝を建てたという。この王朝をインド史ではクシャーナ朝という。この国の歴史については不明な点が多く、貴霜についても、大月氏の一族とする説と、土着のイラン系民族であるとする説とがある。クシャーナ朝第3代のカニシカ王(紀元後2世紀頃)は仏教の庇護者として知られる。この王の時代にクシャーナ朝はヒンドゥークシュ山脈を越えて支配地域を北西インドからガンジス(ガンガー)川流域まで広げた。ガンダーラ(現在のパキスタン北部)の仏教美術もクシャーナ朝の産物である。クシャーナ朝の旧領は3世紀前半にはササン朝ペルシャの支配下に入ってクシャノ・ササン朝と呼ばれた。クシャーナ朝と同じ頃、その西方のカスピ海に至る地域は、紀元前247年頃に成立したアルサケス朝パルティアの領域であった。パルティアはクシャーナ朝と並行して紀元後3世紀前半まで存続したが、アルダシール1世(紀元後226年、ササン朝ペルシャを建国)に敗れて滅亡した。 カニシカ王像 マトゥラー博物館 カニシカ王のコイン
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大月氏とクシャーナ朝
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「クシャーナ朝」の記事における「大月氏とクシャーナ朝」の解説
貴霜翕侯(クシャーナ族)が元々大月氏に属し、大月氏の他の翕侯を従えた後、クシャーナを国号として王と名乗ったという『後漢書』の記録や、伝統的な月氏の王の称号を用いたことからもわかるように、大月氏とクシャーナ朝は多分に連続性の強い政権であったと考えられる。 中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。『後漢書』には以下のようにある。 月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。(クジュラ・カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸国は彼をクシャーナ王と呼んでいる。漢では古い称号を用いて大月氏と呼んでいる。 — 後漢書 また、中国の三国時代にヴァースデーヴァ(波調)が魏に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、「親魏大月氏王」の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることからよく知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。 しかし、大月氏とクシャーナ朝を同一のものと見なしていいかどうかにはさまざまな立場がある。ソグディアナやホラズム地方の大月氏系諸侯は、クシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した痕跡は現在まで一切発見されていない。
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