クシャーナ朝 文化

クシャーナ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 17:30 UTC 版)

文化

王号

クシャーナ朝はユーラシア大陸の中央部の広い領域を支配したため、各地の文化の大きな影響を受けた。その文化は包容的、融合的性格を持ったといわれており、特にその特徴は王の称号に現れている。

例えばカニシカ王の残した碑文の中には「シャーヒ、ムローダ、マハーラージャ、ラージャティラージャ、デーヴァプトラ、カイサラなるカニシカ」と記す物がある。これはカニシカが使用した称号を羅列したものであるが、

  • シャーヒ(Shahi)は月氏で昔から用いられた王の称号である。
  • ムローダ(Muroda)はサカ人たちの首長を表す語である。
  • マハーラージャ(Maharaja)はインドで広く使われた称号であり大王を意味する。
  • ラージャティラージャ(Rajatiraja)は「諸王の王」(シャーハンシャー)というイラン地方の伝統的な帝王の称号をサンスクリット語に訳したものである。
  • デーヴァプトラ(Devaputra)はデーヴァ(神、漢訳では天と訳される)とプトラ(子)の合成語であって中華皇帝が用いた称号「天子」をサンスクリット語に訳したものである。
  • カイサラ(Kaisara)はラテン語カエサル(Caesar)から来たもので、ローマ皇帝の称号の一つである。

カニシカ王に限らず、クシャーナ朝の王たちは世界各地の王の称号を合わせて名乗ることを好んだ。

近年、アフガニスタンで発見されたダシュテ・ナーウル碑文やラバータク碑文などのバクトリア語資料において、ヴィマ・タクトやカニシカは ÞΑΟΝΑΝΟ ÞΑΟ (シャーウナーヌ・シャーウ)と称しており、アケメネス朝アルサケス朝サーサーン朝など他のイラン系の王朝と同じく、「諸王(ÞΑΟΝΑΝΟ シャーウナーヌ)」の「王(ÞΑΟ シャーウ)」(シャーハーン・シャー)を名乗っていたことも判明している。

美術

カニシカ王のとき、あつく仏教を保護したため、仏教芸術が発達した(ただし、王家の間ではゾロアスター教などイランの宗教も崇拝されていた)。プルシャプラを中心とするガンダーラで興ったため、ガンダーラ美術と呼ばれる。

この隆盛を極めたガンダーラ美術の成果の中でも最も重要なものは仏像の登場である。従来の仏教美術において仏陀の姿を表現することは意識的に回避されてきた。仏教説話を表現する際、仏陀は法輪仏塔仏足跡などで象徴的に表されるだけであったが、クシャーナ朝支配下のガンダーラとマトゥラーにおいてついに、仏陀を人間の姿で表す仏像が誕生したのである。マトゥラーではガンダーラの仏像とはやや赴きを異にする仏像が多数制作されている。

ガンダーラやマトゥラーなど、当時クシャーナ朝が支配した領域で広く仏像が制作され始めたことは、仏像の誕生にクシャーナ人自体も深く関わっていたことを示唆する。なお、ガンダーラとマトゥラーのどちらで先に仏像の制作が始まったのかはわかっていない。

スルフ・コタル出土のバクトリア語碑文(1957年発掘)

言語

クシャーナ人の使用した言語は、中期イラン語で東イラン語に属すと考えられるバクトリア語である。アラム系文字で筆記される場合が多いイラン語としては唯一ギリシア文字系で筆記された。既存のギリシア文字24個に加え、アイスランド語の「Þ」に形状の似た[š]の音価を持つ文字を加えた25字が用いられた。現在残されている最古の資料はクジュラ・カドフィセスの子と目されるヴィマ・タクト王の銘になる碑文である。つい最近までバクトリア語の研究は貨幣研究と1957年にスルフ・コタルで出土したカニシカ王碑文など若干の碑文以外に資料が無く、ほとんど謎の言語であったが、近年アフガニスタンで碑刻資料と皮革書簡文書が大量に発見されたことによって飛躍的に解明が進んだ。

特に、ラバータク碑文は1200字余20数行に渡る現存ではもっとも長いバクトリア語碑文で、クジュラ・カドフィセス、ヴィマ・タクト、ヴィマ・カドフィセス、カニシカに至る4代の王名が列挙され、カニシカの命令が、

「ギリシア語の勅命を発してその後(治世の極初期に)アーリア語(バクトリア語)にした、カニシカの統治第1年にインドのクシャトリアの王国の全てに布告した。(中略)カウシャーンビーパータリプトラ、スリー・チャンパーまで偉大なる支配者と他の者たちの意図の内に置いた」

と、クシャーン朝の制度やこの時代のインド史を知る上で極めて重要な内容が書かれている。また、碑文の書式もアケメネス朝の古代ペルシア語による王碑文やサーサーン朝の王碑文などとの共通性が指摘されている。

碑文

  • 『ダシュティ・ナウル碑文』(ギリシア語・バクトリア語・未知の言語)…ヴィマ・タクトゥの戦勝記念碑。1967年フランス隊が確認・解読。
  • 『ディルベルジン碑文』(ギリシア文字/バクトリア語)…ヴィマ・タクトゥもしくはヴィマ・カドフィセスによる鑿井記念碑。1969年以降のソ連・アフガニスタン調査隊による発見。
  • 『スルフ・コタル碑文SK-1』(ギリシア文字/バクトリア語)…カニシュカによる神殿建立記念碑。1952年 - 1965年フランス隊調査による発見。
  • 『スルフ・コタル碑文SK-2』(ギリシア文字/バクトリア語)…ヴィマ・タクトゥもしくはヴィマ・カドフィセスによるもの。
  • 『スルフ・コタル碑文SK-3』(ギリシア文字/バクトリア語)
  • 『スルフ・コタル碑文SK-4』(ギリシア文字/バクトリア語) - フヴィシュカによる鑿井記念碑。
  • 『アイルタム碑文』(ギリシア文字/バクトリア語) - フヴィシュカによる水道建設・神殿復旧記念碑。1979年ソ連が発見。
  • ラバータク碑文』(ギリシア文字/バクトリア語) - カニシュカによる神殿建立記念碑。1993年発見。ニコラス・シムズ=ウィリアムズが解読。

[1]


注釈

  1. ^ 後漢書』西域伝では高附翕侯の代わりに都密翕侯が上げられている。
  2. ^ 翕侯(きゅうこう)とはイラン系遊牧民における“諸侯”の意。烏孫などにも見受けられる。ベイリによればイラン語で“統率者”の意で、E.G.プーリーブランクによればトハラ語で“国家”の意であるという。また、のちのテュルク系国家に見られるヤブグ(葉護:官名、称号)に比定されることもある[要出典]
  3. ^ 江上波夫は五翕侯を大月氏によって任命された月氏人戦士の封建諸侯であるとした[要出典]
  4. ^ 榎一雄は大月氏における五翕侯を大月氏によって任命された土着有力者とした[要出典]
  5. ^ クジュラ・カドフィセスによるカブール支配の確立は、彼が翕侯の地位についた後の出来事である。それはクジュラ・カドフィセスがヘルマエウスと共同で発行したコインの中にヤヴガ (Yavuga) という称号が刻まれている物があることから知られる[要出典]
  6. ^ プリニウスは当時インド人がローマの金を年間5千万セステルティウス持ち去っていると記しているが、これにはクシャーナ朝にもたらされた分も含まれているであろう[要出典]
  7. ^ ヴィマ・タクト (Vima takto) の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と読む説は確定的ではない[2]

出典

  1. ^ 小谷 1999, pp.101-111.
  2. ^ 山崎 2007, p. 139.






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