カニシカ王と後継者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 02:40 UTC 版)
ヴィマ・カドフィセスの息子(異説あり、王朝交代説を参照)カニシカ1世の時(2世紀半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都がプルシャプラ(現在のペシャーワル)におかれ、独自の暦(カニシカ紀元)が制定された。 カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。また、カニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されているが、これを征服の痕跡と見なせるかどうかは定かではない。ともかくも、こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。 カニシカはその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラなどを中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。 軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を継いだのは、おそらくカニシカの息子であろうと言われているヴァーシシカ王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。ヴァーシシカは最低でも4年間は王位にあったことが碑文の記録からわかるが、その治世がいつ頃まで続いたのか全くわかっていない。 ヴァーシシカに続いて、やはりカニシカ王の息子であると考えられているフヴィシカが王位についた。フヴィシカ王は40年前後にわたって王位にあったことが知られている。フヴィシカに関する碑文などがかなり広範囲から見つかっており、カニシカ王の死後は記録が乏しいとはいえ、クシャーナ朝自体は強勢を維持していたと考えられる。 3世紀頃、フヴィシカの跡を継いでヴァースデーヴァ(バゾデオス、ΒΑΖΟΔΗΟΣ、波調)が王位についた。彼の治世に、三国時代の魏に使者を派遣した記録が残されている。ヴァースデーヴァというインド風の王名は、この時期のクシャーナ朝が極めて強くインド化していたことを示す。貨幣などの図案にも、インド土着の様式が強く現れるようになっている。 ヴァースデーヴァはサーサーン朝の王シャープール1世と戦って完全な敗北を喫した。以後クシャーナ朝はインドにおける支配権を失い、残された領土はサーサーン朝に次々と制圧された。クシャーナ朝はなおもカブール王として存続していたが、バハラーム2世(276年 - 293年)の時代にはサーサーン朝の支配下に置かれるようになった。 クシャーナ朝の旧領土はサーサーン朝の支配下においては「クシャーン・シャー」(クシャーナ王)と称するサーサーン朝の王族によって統治された。これは通例クシャーノ・サーサーン朝(クシャノササン朝)と呼ばれる。クシャーノ・サーサーン朝が発行したコインなどはサーサーン朝様式よりもクシャーナ朝の様式に近く、おそらくは多くの面においてクシャーナ朝の要素を継承したと考えられる。このようにクシャーナ朝の権威は滅亡した後も長く現地に残ったのであった。
※この「カニシカ王と後継者」の解説は、「クシャーナ朝」の解説の一部です。
「カニシカ王と後継者」を含む「クシャーナ朝」の記事については、「クシャーナ朝」の概要を参照ください。
- カニシカ王と後継者のページへのリンク