カニシカ王以前のペシャーワル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 07:23 UTC 版)
「ペシャーワル」の記事における「カニシカ王以前のペシャーワル」の解説
ペシャーワルは、カイバル峠からわずか50kmという地理的条件から古代より多くの民族の支配を受けてきた歴史を持つ。紀元前6世紀にはガンダーラの王国の支配を受けた。また、ハラッパーを中心とするインダス文明やバクトリア地方とを結ぶ結節点の役割を果たしてきた。歴史学者のTertius Chandlerによると、紀元前100年ごろには、ペシャーワルの町には12万人の人口を誇り、当時では世界で7番目に大きな都市であったという。 ヴェーダの文献に従うとプシュカラヴァーティと呼ばれる町が『ラーマーヤナ』の時代にあったとされる。しかし、この町の存在自体は考古学の研究においては妥当ではないとされる 。記録に残っている歴史では、ペシャーワルにおける最古の都市は、サンスクリットで「人間の都市」を意味するプルシャプラ(Purushapura)がクシャーナ朝によって建設されたことから始まる。クシャーナ朝以前のペシャーワルは、ハカーマニシュ朝、アレクサンドロス3世の大帝国の支配を受けていたと考えられている。アレクサンドロス3世のディアドコイであるセレウコス1世はチャンドラグプタと争い、インドからの撤退を余儀なくされた。その後、ペシャーワルはマウリヤ朝の支配を受け、マウリヤ朝の時代に仏教が伝来した。 ペシャーワルを含む地域は、グレコ・バクトリア王国の王en:Eucratides I(在位紀元前170年から159年)によって支配され、のちに、インド・グリーク朝へと発展を遂げた。インド・グリーク朝は現在のパキスタンから北インド一体を支配するにいたった。その後も中央アジアから多くの民族(パルティア、イラン系諸民族)がペシャーワルに侵入した。その中で、最も有名なのが、インド・パルティア王国を建国したとされるゴンドファルネスである。彼は、紀元前46年にペシャーワルへの侵攻を開始した。
※この「カニシカ王以前のペシャーワル」の解説は、「ペシャーワル」の解説の一部です。
「カニシカ王以前のペシャーワル」を含む「ペシャーワル」の記事については、「ペシャーワル」の概要を参照ください。
- カニシカ王以前のペシャーワルのページへのリンク