イスラム化以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 08:59 UTC 版)
カラハン朝が分裂すると、カシュガルを支配する王家がホータンを領有した。12世紀に東西カラハン朝が西遼に臣従すると、ホータンもまた西遼の影響下に置かれる。ナイマン族のクチュルクが西遼の帝位を簒奪した際、ホータンのイスラム教徒はキリスト教か仏教への改宗を強制される宗教的迫害を受けた。 元のクビライの治世に于闐は斡端と名前を改められる。斡端宣慰使元帥府が設置され、モンゴル帝国の王族がホータンを統治した。マルコ・ポーロも『東方見聞録』の中で斡端についての記録を残し、農業と繊維業が盛んな都市であると記した。明の時代になると于闐の旧称が再び使用されるようになり、1406年にホータン王家は明に朝貢を行った。 15世紀以降のホータンは、モグーリスタン・ハン国、ヤルカンド・ハン国、ジュンガル部といった遊牧民族の支配を受けた。ヤルカンド・ハン国の支配下では、市内の東の一角に領主の城(旧城)が建てられた。1680年にヤルカンド・ハン国がジュンガルに滅ぼされると、ホータンはガルダン・ハーンが任命した白山党のホージャによって統治される。 1755年にジュンガル部が清に平定されると、1760年にはホータンを統治していた白山党も清に滅ぼされ、ホータンは清の弁事大臣の管轄下に置かれた。清の統治下では、ホータンは地方統治の拠点の一つとして少数の官兵が配備される。18世紀から19世紀にかけてホータンの人口は増加し、旧城の城壁の外に居住区が広がった。1828年、防備のために旧城に隣接した場所に新城が建設される。 1860年代の回族の反乱(回民蜂起)の際、ハッジー・パーディシャーがホータンに独立政権を樹立した。この時代、ホータンの周囲におよそ10kmにわたる城壁が建設されたが城壁は短期間で崩壊し、1884年に清が再建した新城壁の一部のみが現存する。1883年に和闐直隷地が設置され、1913年に直隷地から県に改められた。
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