15世紀以降
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「モグーリスタン・ハン国」の記事における「15世紀以降」の解説
15世紀のモグーリスタンは、ティムール朝に加えてオイラト、ウズベクといった遊牧勢力の侵入に晒されることになる。イスラムを受容したハンたちは、ナクシュバンディー教団の教義を学んだ。15世紀初頭に即位したムハンマドはイスラム風の衣服を着用し、イスラムへの改宗を推進して領内の全てのモグール人にイスラムを信仰させた。1418年に即位したワイスはムスリムに対して危害を加えることを禁止する命令を部衆に出し、従兄弟のシール・ムハンマドとハン位を争った。シール・ムハンマドを破ってハンに復位したワイスはオイラトに戦いを挑むも敗れ、その捕虜となった。 ワイスの死後、その子であるユーヌスとエセン・ブカの兄弟がハン位を争った。ユーヌスはイリからタシュケントに至る西側の地域、エセン・ブカは東側のウイグルスタンを領有した。エセン・ブカの代に、ウズベクから分離した一団(カザフ)がモグーリスタンに移動してくると、エセン・ブカは彼らをモグーリスタンの辺境部に住まわせた。1468年(もしくは1469年)に単独のハンに即位したユーヌスは、ティムール朝の弱体化に乗じて1482年にタシュケントを占領した。 16世紀から、モグーリスタンにカザフ、キルギスからの圧力が加わるようになった。カザフはモグーリスタン北のイルティシュ川流域まで進出し、ドゥグラト部の一部がカザフに合流した。さらにエニセイ川上流域から移動したキルギスが、天山山脈西部に進出した。14世紀半ばには160,000人に達していたモグール人も、16世紀半ばには約30,000人に減少していた。 ユーヌスの跡を継いでモグーリスタンの西部を領有したマフムードは1508年(もしくは1509年)にシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンに殺害され、タシュケントはシャイバーニー朝に占領された。マフムードの死後、モグーリスタン・ハン国の残存勢力は次第にタリム盆地のオアシス地帯に追いやられていくことになる。
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15世紀以降
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「ヒンドゥー教の遺跡一覧」の記事における「15世紀以降」の解説
スクー寺院 (1430年代、マジャパイト王国時代に建立。インドネシア) ハンピの建造物群(成立年代不詳。主時期は14世紀-16世紀、インド・カルナータカ州)
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