15世紀中葉から16世紀初頭にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 14:39 UTC 版)
「鷹山氏」の記事における「15世紀中葉から16世紀初頭にかけて」の解説
鷹山氏は源頼光の遠裔とされ(「高山家系図歴代紀」)、鎌倉時代中期に大和国添下郡の鷹山荘(庄)に移住し、南北朝期には南朝に仕えたと伝わる(「高山氏小孜録」「法楽寺縁起」)。 応永27年(1420年)には鷹山氏は鷹山荘の下司職を得ており、その後、嘉吉4年(1444年)、鷹山奥頼弘が畠山持国を撃退している。頼弘は興福寺一乗院方の衆徒で、康正元年(1455年)に官符衆徒の地位に就いていた。また、鷹山氏は越智党に属して、応仁の乱(1467 - 1477年)では西軍の畠山義就方に加わり、越智氏・古市氏に次ぐ地位を得るに至っていた。 文明14年(1482年)、鷹山大弐法眼(頼弘か)の子・鷹山奥頼栄が義就から一時離反(のち帰参)している。明応2年(1493年)には将軍・足利義材(義稙)の河内出陣に伴う畠山政長らの攻撃によって頼栄は鷹山から没落するなど苦境に陥るが、明応の政変で義材が将軍位から廃されるとその危機を脱した。 明応9年(1500年)頃には鷹山藤市が室町幕府や細川政元から知行を安堵され、また永正元年(1504年)には越智方の大和今市城に籠戦した鷹山春藤や山城淀の藤岡城での薬師寺元一鎮圧に貢献した鷹山藤若が細川政元から賞されるなど(今市城の落城の際、藤若の父が切腹を遂げている)、鷹山氏は細川氏との関係を築いていった。 その後、永正17年(1520年)5月には古市氏・超昇寺氏とともに筒井方を攻め、奈良を占拠しているが、同年10月には越智氏と筒井氏の間で和睦が結ばれた。その際の取り決めに、本来筒井方の与力でありながら越智氏に味方していた超昇寺氏・鷹山氏・根尾氏・番条氏・島氏に所領を返還するとの条項があり、時期は不明だが鷹山氏は筒井氏に属していたとされる。この和睦以後の大和における鷹山氏の行動は筒井党としてのものと見える。
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