15世紀の北方美術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 18:17 UTC 版)
詳細は「北方美術」を参照 ブルゴーニュ公国に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている。 さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄フーベルトが着手し、弟ヤンが完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である。ヤンはフィリップ3世の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった。 同じ頃、トゥルネーで活躍していたロベルト・カンピンは写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事したロヒール・ファン・デル・ウェイデンによって継承された。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている。 その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けたディルク・ボウツ、フーゴー・ファン・デル・グース、ハンス・メムリンクらがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた。一方、ヒエロニムス・ボスは同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている。 同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた。そのような中、シャルル7世の宮廷画家をしていたジャン・フーケが『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している。しかし、アンゲラン・カルトン(英語版)など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた。 対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、シュテファン・ロッホナーやコンラート・ヴィッツなどが活躍した。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている。15世紀後半に入ると、ミヒャエル・パッハー(英語版)によって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された。また、新しい分野として版画美術が伸張し、マルティン・ションガウアーの登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠アルブレヒト・デューラーの芸術を育んだ土壌を形成している。
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