15世紀:オスマン帝国のオトラントへの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 00:50 UTC 版)
「イタリアのイスラム教」の記事における「15世紀:オスマン帝国のオトラントへの侵攻」の解説
15世紀の間、オスマン帝国はヨーロッパ南東部で支配圏を大きく拡大していった。スルタン・メフメト2世の下、オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルとガラタを征服、ビザンティン帝国の領土を完全に吸収した。1475年には黒海におけるジェノヴァの最後の砦を陥落させ、1479年にはヴェネツィア共和国の影響下にあったエヴィア島のギリシア人居留地を破壊した。オスマン帝国軍は1479年にイタリア北東部にあるフリウーリ地方へと侵攻、さらに1499年から1503年にかけて再度侵攻を行った。ブリンディジの南東約100kmの地点にあるプッリャの港町・オトラントは1480年に支配下に置かれた(オトラントの戦い)が、1481年にメフメト2世が亡くなり後継者争いが起きるとオスマン帝国軍は潰走した。オスマン帝国の帝位を狙っていたジェム・スルタンは教皇による支援にもかかわらず敗北した。彼は家族とともにナポリ王国へと逃亡し、そこでジェムの男系の子孫が1492年に教皇によりプリンシペ・デ・サイード(サイード公)の称号を授けられた。サイード公らは17世紀までナポリを拠点とし、またマルタに移転する1668年まではシチリア島も拠点としていた。
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