ムハンマド・シャイバーニー・ハンとは? わかりやすく解説

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ムハンマド・シャイバーニー・ハン

(ムハンマド・シャイバーニー・ハーン から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/15 03:51 UTC 版)

ムハンマド・シャイバーニー・ハン
ウズベク・ハン国ハン
在位 1500年 - 1510年

出生 1451年
死去 1510年12月2日
メルヴ郊外
子女 フッラム・シャー
テムル
家名 シバン家
王朝 シャイバーニー朝
父親 シャー・ブダグ
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ムハンマド・シャイバーニー・ハンウズベク語: Muhammad Shayboniy / Муҳаммад Шайбонийペルシア語: شایبک خان, ラテン文字転写: Muḥammad Shaybānī Khān1451年 - 1510年12月2日)は、ウズベク・ハン国シャイバーニー朝の初代ハンアブル=ハイル・ハンの孫。

生涯

シャー・イスマーイールとの戦い。

1451年、シャー・ブダグの子として生まれる。

1468年にアブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベクウルスは分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハンとジャニベク・ハンの支配するカザフ・ハン国に流れた。アブル=ハイル・ハンの孫であるムハンマド・シャイバーニーは各地を転々とし、亡命生活を送る。

1496年/1497年、ムハンマド・シャイバーニーはティムール朝の内部抗争に乗じてシル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した[1]

1500年、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはサマルカンドを占領し、マー・ワラー・アンナフルの支配権を得た[1]。一時はティムール家のバーブルにサマルカンドを奪われるが3カ月余りで奪還した[1]

1503年アム川上流域のクンドゥーズからフェルガナ盆地タシュケントを占領。1505年にはホラズム地方を、1507年にはヘラートを占領してティムール朝を滅ぼし、ホラーサーンに進出した[1]

しかし、その後のカザフ遠征(1508年 - 1509年)や、ハザーラ族遠征に失敗し、諸王族に対する分封政策が失敗したため、彼らからの支持を得られなくなった[1]。折しもサファヴィー朝シャー・イスマーイール(在位:1501年 - 1524年)の侵攻に遭い、ムハンマド・シャイバーニー・ハンはメルヴ郊外で敗死した(1510年[1]。ムハンマド・シャイバーニー・ハンの頭蓋骨はシャー・イスマーイールによって金箔を貼られ、にされた(髑髏杯)。

  • フッラム・シャー
  • テムル

参考資料

先代
アブル=ハイル・ハン
シャイバーニー朝の君主
1500年 - 1510年
次代
クチュクンジ・ハン
  1. ^ a b c d e f 『中央ユーラシア史』山川出版社、2000年10月25日、227,231,232頁。 



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