シャイバーニー朝以降(ウズベク系王朝時代)
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「マー・ワラー・アンナフル」の記事における「シャイバーニー朝以降(ウズベク系王朝時代)」の解説
遊牧民族のウズベク国家であるシャイバーニー朝(ブハラ・ハン国)は1500年にサマルカンド、1507年にヘラートを占領し、ティムール朝は滅亡する。ムハンマド・シャイバーニー・ハンを始祖とするシャイバーニー朝は、ティムール朝で活発化したペルシア語、チャガタイ・トルコ語による文芸運動を積極的に吸収、継承した。首都となったサマルカンドやブハラはその発信地として繁栄し、その影響はモグーリスターン・ハン国にまで直接及び、現在の新疆ウイグル自治区の文化的な基盤を形成している。ブハラ・ハン国やヒヴァ・ハン国などのテュルク系遊牧民のウズベク国家が建設されたためにテュルク化がより進展し、かつてシル川以北の地域を指して使われた「トルキスタン(テュルクの住む場所)」が、シル川・アム川の間の地域も含むようになった。「マー・ワラー・アンナフル」の語は地名として定着しており、ウズベク国家の成立後も史料では「マー・ワラー・アンナフル」が使われ続けられた。 16世紀末にシャイバーニー朝が断絶した後はアストラハン・ハン国のジャーン朝がブハラを首都として支配する。しかし、イランに成立した諸王朝との抗争のため、マー・ワラー・アンナフルの経済力の回復は難しかった。18世紀初頭に成立したコーカンド・ハン国は清、ロシア帝国との交易で大きな利益を上げたが、19世紀に入るとウズベク系の三ハン国はロシア帝国の干渉を受けるようになる。1868年にブハラ・ハン国、1873年にヒヴァ・ハン国がロシアの支配を受け入れ、1876年にコーカンド・ハン国が征服される。1867年にマー・ワラー・アンナフルはロシアによって設置されたトルキスタン総督府の管轄化に置かれ、ロシア帝国の保護下に置かれながらも、1920年にブハラのマンギト朝の君主アーリム・ハーン、ヒヴァのイナク朝の君主サイード・アブドゥッラーがソビエト連邦によって追放されるまで、マー・ワラー・アンナフルにはモンゴル系の政権が存続した。ロシア革命後の1924年に中央アジアで実施された民族・共和国境界画定によってマーワラー・アンナフルは各共和国に区画される。
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