シャイバーニー朝との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:15 UTC 版)
「イスマーイール1世」の記事における「シャイバーニー朝との戦い」の解説
タブリーズ制圧後、かつて白羊朝に従っていた勢力は、ウズン・ハサンの孫にあたるイスマーイールを支持するようになる。サファヴィー朝軍は分裂状態にあった白羊朝の諸勢力を撃破し、イラン高原西部とメソポタミア平原の大部分を支配下に置いた。1508年に最後に残った白羊朝の君主ムラードを倒してバグダードを制圧し、サファヴィー朝は白羊朝を滅ぼした。 一方、サファヴィー朝の成立と同時期に、東方ではマー・ワラー・アンナフルからホラーサーンにかけての地域を支配するウズベクのシャイバーニー朝が勃興していた。イスマーイールとシャイバーニー朝の君主ムハンマド・シャイバーニーは、書簡を通して互いに相手の信仰を非難しあい、1510年の秋にイスマーイールはホラーサーン地方に進軍した。シャイバーニーの軍がサファヴィー朝軍との会戦を避けてメルヴに立て籠もると、イスマーイールは退却したと見せかけて後退し、ウズベク軍を城内から誘き出した。追撃を行おうとして城内から出たウズベク軍はイスマーイールの伏兵から攻撃を受けて大敗し、司令官のシャイバーニーは戦死した。イスマーイールの元に届けられたシャイバーニーの首は金箔を貼られて酒杯にされ、オスマン朝のスルターン・バヤズィト2世の元に送られた。 戦後、シャイバーニー朝の支配領域はアム川の北岸まで後退し、ホラーサーン地方はサファヴィー朝の支配下に置かれた。
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