シャイバーニーの下での修行、そしてハナフィー派法学者に対する考え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 11:02 UTC 版)
「ムハンマド・ブン・イドリース・シャーフィイー」の記事における「シャイバーニーの下での修行、そしてハナフィー派法学者に対する考え」の解説
シャーフィイーはバグダードへ行き、シャイバーニーを含むアブー・ハニーファの弟子たちと共に学んだ。彼らハナフィー派法学者たちとの議論に積極的に参加し、マーリキー派の立場を活発に擁護したのはここ、バグダードでのことであった。シャーフィイーとシャイバーニーは、それぞれの意見の相違を超えて議論に参加したが、決着はつかなかったと言われる。一説によれば、シャーフィイーの議論には何度か異議が申し立てられたもという。これらの説の当否はさておき、彼は西暦804年にバグダードを去り、メッカに戻った。 メッカではマスジド・ハラームにおいて法学の講義を行い、多くの弟子に深い印象を残した。そうした弟子たちの一人にハンバリー法学派の学祖、イブン・ハンバルもいた。シャーフィイーの学説はこなれたものになり始め、彼自身、ハナフィー派法学者の理論に説得力を認め始めた。それと同時に、マーリキー派とハナフィー派の双方に固有の欠点にも気づくようになった。
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