マフムード (モグーリスタン)とは? わかりやすく解説

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マフムード (モグーリスタン)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/10 07:36 UTC 版)

マフムード(Mahmud、生年不明 - 1508年[1])は、モグーリスタン・ハン国の第14代ハン

概要

モグーリスタン・ハン国第13代ハンのユーヌスの子供[1]。1487年にユーヌスが死去[1]。マフムードはタシュケントモグーリスタン西部(今のキルギスタン)を継承したが、モグーリスタン東部(今の中国西北部新疆ウイグル自治区)は兄のアフマド・アラクがすでに継承、支配していた。これにより、モグーリスタン・ハン国は東西に分裂することとなった[1]

数年前にユーヌスによって征服されたサマルカンドティムール朝スルタン・アフマドフェルガナのオマル・シャイフ(Omar Shaikh)が反攻、タシュケントを攻撃するが、マフムードは首尾よくこれを阻止。この際にスルタン・アフマド配下のウズベクムハンマド・シャイバーニー・ハンを味方に引き入れた。ムハンマド・シャイバーニーへの恩賞として、マフムードは1488年にロシアのトルキスタン(「ウズベキスタン」と名付けられ、最終的にその名前で現在の国に発展した)に土地を与えた。しかし、このことが、モグーリスタン・ハン国とは伝統的に友好関係にあったが、ウズベク人と敵対関係にあったカザフ人の反感を買い、モグーリスタン・ハン国とカザフの戦争に発展、マフムードは敗北することとなった。1508年死去、モグーリスタン・ハン国は領土の大部分をカザフほかに占領され、ここに滅亡することとなった[1]

脚注

  1. ^ a b c d e 丸山鋼二 2009, p. 158.

参考文献

  • 丸山鋼二「新疆におけるイスラム教の定着 : 東チャガタイ汗国 : 新疆イスラム教小史 3」『文教大学国際学部紀要』第20巻第1号、文教大学、2009年7月1日、147-160頁、ISSN 0917-3072NAID 110007198559、NII:1351/000036442022年3月22日閲覧 
先代
ユーヌス
モグーリスタン・ハン国の君主
1487年 - 1508年
次代
マンスール



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