アケメネス朝とアルサケス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
「パルティア」の記事における「アケメネス朝とアルサケス朝」の解説
アルサケス朝、あるいはパルティア人たちがアケメネス朝と自分たちの関わりをどのように考えていたのか、ということは大きな議論の対象となっている。アケメネス朝とアルサケス朝の関係を考慮する上ではっきりしていることは、まずパルティア人が前141年にバビロニアを征服した後、アケメネス朝以来の伝統的な称号「諸王の王(ΒΑΣΙΛΕΟΣ ΒΑΣΙΛΕΩΝ)」を採用したことであり、これはコインやバビロニアの粘土板文書によってはっきりと証明されている。 アルサケス朝の王たちがアケメネス朝の王の後継を主張したという見解をはっきり伝えているのはローマ・ビザンツの著作家たちである。タキトゥスは『年代記』の中で、アルタバノス2世はローマに対し、キュロス2世とアレクサンドロス大王がかつて支配した全ての領土を侵略するだろうと脅したと記し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)時代の記録は、アルサケス朝の王たちはペルシアの王アルタクセルクセスの子孫であるという伝承を伝えている。この伝承の存在が事実とすれば、これは古代イランの「輝かしい王たちの正統な後継者」となることで、往年のアケメネス朝の領土の支配を正当化するためのイデオロギーから発生したものであったであろう。 実際にパルティア人自身がアケメネス朝をどのように認識していたかを示す記録は残存していない。上に述べた「諸王の王」という称号はしばしばアケメネス朝の後継者としてのアルサケス朝の立場を示す物とされるが、この称号はセレウコス朝の諸王も使用していたため、必ずしもアケメネス朝との関係を証明するものではない。 アルサケス朝のアケメネス朝に対する後継意識がパルティア自体やイランにおける歴史伝承から生じたものではないとする見解を唱える人物にはM・ラヒーム・シェイガン(M. Rahim Shayegan)などがいる。彼は、アルサケス朝をアケメネス朝に擬するローマの文学的伝統について、東方征服者であるアレクサンドロス3世(大王)に自らを重ね合わせる傾向にあったローマ人の文学的伝統において、東方の敵が復活したアケメネス朝という位置付けをなされたものと述べる。そしてまた、パルティア人たちはアケメネス朝の記憶をほとんど継承しておらず、バビロニアの征服後にバビロニア人の学者たちが残していた記録を介してそれを得たとする。 同時に、アルサケス朝の王たちがアケメネス朝の後継を主張したという立場を取る者も多くいる。佐藤進は、J.ネスナー(J.Neusner)の研究を引き、アルサケス朝がアケメネス朝の遺産相続者として帝国政策を推進したとしている。そして、パルティアの拡大期にはこの後継意識は外国に対する征服戦争を正当化する権利要求の表現として現れたが、後期に入るとむしろ国内の有力貴族に対する王権の正統性を強化する対内的な性質が強くなったという。
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