粘土板文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:08 UTC 版)
ニップルからは30,000点とも言われる粘土板文書が発見されており、古代の政治・社会について貴重な情報を現代に提供している。 ニップルから発見された前5世紀の粘土板文書群には当時の政府機構と密接なかかわりを持った商人であるムラシュ家(Murash)に関わる文書が含まれており、前5世紀のハカーマニシュ朝時代のニップルの状況とハカーマニシュ朝の行政の姿に光を当てている。ハカーマニシュ朝は前539年にメソポタミアを征服した。新たな支配者たちは自分の領地を管理する現地人の協力者を必要としていた。この現地の協力者たちの姿をニップルの商人ムラシュ家に見ることができる。少なくとも3世代続いたムラシュ家は、領主たちが保有していた土地を借り受け、これをさらに別の借主(小作農)へ又貸しするという事業を営んでいた。ムラシュ家はさらに国家から得た灌漑用水の利用権、種子、農具、家畜を小作農たちに販売していた。土地の所有者たちは、仲介者としての報酬として小作料と税金の一部をムラシュ家が確保することを認めていた。さらにムラシュ家は土地を担保にして銀を貸し出していた。多くの農民がこの貸付を必要していたと見られ、彼らは間もなく土地を失っていくこととなった。ムラシュ家に土地の管理を委託した大土地所有者には、アルタクセルクセス1世の母アメストリスと思われる女性や、ダレイオス2世の后パリュサティス、エジプト総督のアルサメスなどがいた。 ハカーマニシュ朝時代には灌漑が改良され、移住者が増大し、リュディア人、カリア人、キッシア人、エジプト人、ユダヤ人(その多くはバビロニアに強制移住させられた人々である)、ペルシア人、メディア人、サカ人などがこの地域に引き寄せられた。残されたムラシュ家の文書はこの多様な住民構成を反映し、契約文書の3分の1に非バビロニア人の名前が登場する。
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