粘土採掘の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 14:31 UTC 版)
「エッパーツハウゼン」の記事における「粘土採掘の歴史」の解説
この町の粘土採掘の歴史は17世紀に遡る。粘土は、主に現在のトーマスヒュッテの周辺地域で採掘された。行政当局は粘土を運ぶ馬車の荷車や車両に粘土輸送許可証を発行し、その対価として税金を徴収した。また、採掘地の賃借料も徴収した。当時の採掘地は現在でも、ヴァッサートゥンペル自然保護地域内に崩れた穴や溝として見ることができる。採掘、輸送、乾燥、成形、装飾、焼成から販売に至るまで粘土産業は大変困難なものであった。最終製品は、甕、深皿、ポット、壷、カップなどの日用品や、タイル、レリーフ板、壁掛け絵皿、花瓶、あるいは大理石模様や装飾セラミック製の様々な耐火装飾までさまざまであった。これらはいずれも陶工の完璧な仕事によって作り出されていた。 これらの製品は「Erdenes Geschirr(大地の食器)」としてフランクフルトのみならず、シュペッサルト地方、フォーゲルスベルク地方や、ハーナウあるいはオッフェンバッハで船に積み替えてライン川を下ったオランダや逆にライン川をさかのぼってボーデン湖周辺の地方にまで流通した。エッパーツハウゼンから輸送するさいには、藁でしっかりと梱包し馬車を用いて運んでいた。 1820年から1830年の間エッパーツハウゼンには30軒の陶工がいた。1850年にはこれに加えて、粘土を扱う業者としては3件のレンガ工場が造られていた。19世紀後半には陶工は34人を数えた。1900年には14の工房でマイスターと職人たちが働いていた。1925年になると陶工の数は6人にまで減少した。現在では伝統的な陶芸用水者小屋で陶芸が行われているだけである。現代的な器の大量生産は、大量の小規模な手工業者の終焉を意味したのである。
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