マケドニア派とクレタ派とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > マケドニア派とクレタ派の意味・解説 

マケドニア派とクレタ派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 05:28 UTC 版)

イコン」の記事における「マケドニア派とクレタ派」の解説

1204年第四回十字軍東ローマ帝国攻め込んで以降帝国経済力軍事力落ち込んだが、美術水準まで落ち込んだわけではない14世紀にはマケドニア派とクレタ派というイコンにおける二つ潮流成立していた。ただし「マケドニア派」「クレタ派」の名称のいずれも便宜的なものであっていずれもマケドニアクレタから始まったものでもなければ、両地域限定されるものでもないマケドニア派は13世紀頃に始まりコンスタンティノープル育ちテッサロニキ発展ギリシアイコン画家通してギリシアバルカン半島全域広がり14世紀初頭にはミストラ至った13世紀から14世紀にかけて最盛期迎えたが、14世紀末から民芸化が始まって衰退し16世紀終わりまでにはマケドニア派は消滅したマケドニア派の特徴として、古典ギリシア由来観念的要素強調挙げられる大きい形、淡い色、弱い明暗対比比較単純な衣の襞、精神的に捉えることに徹した人体表現などその特徴である。マケドニア派は大きくものを捉える性格から、小さなイコンよりも広い面積イコン壁画など)に頻繁に使われた。 クレタ派はその名称にも関わらずクレタ島発祥の地ではない。どこに始まったかについては定説が無い。14世紀初頭におそらくコンスタンティノープルから始まり伝えられ先のミストラ早くから中心地となって14世紀後半にはミストラからクレタ島伝えられたと考えられている。クレタ島からメテオラアトス山などギリシア各地広まりバルカン半島各地分布していった。 クレタ派は東ローマ帝国末期マケドニア派と競い合い1453年コンスタンティノープル陥落し以降は、正教会イコンにおいて主流となり、16世紀壁画イコン、板イコンいずれにおいても最盛期迎えたアトス山にある大ラヴラ修道院食堂本堂のフレスコイコンを制作したクレタのセオファニスは、クレタ派の最も代表的なイコン画家数えられるクレタ派の特徴として、13世紀までイコン表現に倣う制作、背が高く細い姿、幾重にもなる衣の襞、濃い色、強調され明暗違い挙げられる

※この「マケドニア派とクレタ派」の解説は、「イコン」の解説の一部です。
「マケドニア派とクレタ派」を含む「イコン」の記事については、「イコン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「マケドニア派とクレタ派」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マケドニア派とクレタ派」の関連用語

マケドニア派とクレタ派のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マケドニア派とクレタ派のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのイコン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS