マケドニア王国・セレウコス朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:05 UTC 版)
「バビロン」の記事における「マケドニア王国・セレウコス朝」の解説
その後、ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王)がここをマケドニア王国の王都としたが、紀元前323年のバビロンでの彼の死に伴ってバビロン会議が開催され、彼の遺将たち(ディアドコイ)によって権力と所領の分割協定が結ばれた。しかし、やがてディアドコイ戦争が勃発し、紆余曲折を経てディアドコイの一人だったセレウコス1世がバビロンとアジアの大部分の支配者となり、紀元前312年にセレウコス朝を開いた。しかし、幾人かの王の中興があったものの彼の時代をピークにセレウコス王朝は次第に領土を喪失していった。
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