マケドニア独立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 14:52 UTC 版)
マケドニア共和国がユーゴスラビアから独立する前後に、ギリシャでは、この統一マケドニア主義がマケドニア政府によって公的に支援されていると疑われた。1991年11月17日に採択された新生マケドニア共和国の最初の憲法では、第47条に次のように記されていた: 1. 共和国は、周辺諸国に住みマケドニア人に属する人々、ならびにマケドニア人の国外追放者の地位と権利に関心を持ち、これらの人々の文化の発展を支援し共和国との結びつきを促進する。この目的の実行に際して共和国は他国の主権を侵害せず内政問題に干渉しない。 2. 共和国は、共和国国民の国外における文化的、経済的、社会的権利に関心を持つ。 ギリシャにおいてこれはギリシャの内政問題への干渉の口実の規定とみなされた。 1995年9月13日、マケドニア共和国は、領土問題などを理由としたギリシャによるマケドニアに対する経済封鎖を終結させるため、ギリシャとの間で暫定合意に達した。合意の規定では、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国は周辺諸国に対する全ての領土要求を撤回し、それによって統一マケドニア主義はいかなる公的な支援も受けることができなくなった。しかしこの概念そのものは広く知られ、マケドニア人民族主義者によって擁護されている。 しかしながら、統一マケドニアの概念はその後もマケドニア共和国の公式文書のなかに見られ 学校において教科書やその他の政府の公式刊行物によって教えられている。
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