マケドニア戦争
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マケドニア戦争(マケドニアせんそう)は、共和政ローマとアンティゴノス朝マケドニアとの間で戦われた一連の戦争。
- 1 マケドニア戦争とは
- 2 マケドニア戦争の概要
マケドニア戦争
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詳細は「マケドニア戦争」を参照 フィリッポス5世率いるマケドニア王国はカルタゴのハンニバル・バルカと同盟を結び、紀元前214年にローマ帝国との第一次マケドニア戦争に巻き込まれた。 アエトリア同盟は、デルフォイのアンフィクティオニア(隣保同盟)の主導権を獲得してギリシャ中心部へ進出し、ローマが進出すると初期は友好関係を結んだ。 前201年、苦難の末に第二次ポエニ戦争に勝利したローマは東への進出を開始、マケドニアがシリアと同盟を組んでプトレマイオス朝への攻撃を行うと、プトレマイオス朝はローマへ支援を要請、ローマはマケドニアへ軍を進めた。第二次マケドニア戦争(前200年 – 前197年)で、アエトリア同盟はローマの勝利に貢献し、マケドニアは大敗北を喫し、ギリシャから撤退した。この時、ローマのギリシャ担当官フラミニヌスは『すべてのギリシャ人の自由』を宣言、ギリシャ人たちはこれを喜んで受け入れたが、これはローマにおける『自由』でしかなかった。 この後、アエトリア同盟もローマと敵対していくことになった。アエトリア同盟などの反ローマ勢力は、シリアと結んで小アジアで「ローマ・シリア戦争」(紀元前191年– 紀元前188年)を開始した。紀元前188年にローマに撃破され「アパメイアの和約」を結んだ。シリアは小アジアを失い、事実上アエトリア同盟は消滅した。 その後しばらく、平穏な時期が続いたが、フィリッポス5世の後を継いだマケドニア最後の王、ペルセウスは積極的に勢力拡大を謀ったため、ローマはこれを攻撃し、「第三次マケドニア戦争」(紀元前171年-紀元前168年)が勃発した。 紀元前168年、ピュドナの戦いでアンティゴノス朝マケドニアは滅亡した。 この時代はアレクサンドロス大王死後、極めて混沌としており、プレマイオス朝エジプトやセレウコス朝シリアのようなアレクサンドロス大王の遺産を下にした国や古典期の自治を保とうとする都市国家も存在した。そしてアエトリア同盟やアカイア同盟のような種族を中心とした国家が活躍した時代でもあった。 アカイア同盟は、ローマが進出してペロポネソス半島の統一に成功した。しかしローマの隆盛によって、マケドニア王国とアカイア同盟はローマに打ち負かされ、ローマの版図に組み込まれる。第四次マケドニア戦争(紀元前150年-紀元前148年)で、マケドニアはこれに敗北し、その2年後の紀元前146年にはマケドニア属州となった。アカイア同盟も、その中心地コリントスが徹底的に破壊され、その命運を閉じたのである。
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