第二次メッセニア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 04:28 UTC 版)
第二次メッセニア戦争 | |||||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||||
スパルタ コリントス レプレオン |
メッセニア アルゴス シキュオン アルカディア エリス |
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指揮官 | |||||||||||
アナクサンドロス アナクシダモス テュルタイオス |
アリストメネス アンドロクレス ピンダス アリストクラテス2世 |
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第二次メッセニア戦争(英:Second Messenian War、紀元前685年-紀元前668年)はメッセニア人によるスパルタへの反乱である。反乱の首謀者の名からアリストメネス戦争とも。
背景
紀元前724年に終戦した第一次メッセニア戦争はスパルタの勝利に終わり、メッセニア人はヘイロータイの身に落とされた。この過酷な境遇に耐えかねたメッセニア人は紀元前685年にスパルタに対して反乱を起こした。
経過
反乱が起こった年に最初の会戦であるデレスの戦いは起こった。この戦いは引き分けに終わったが、この戦いで奮戦したメッセニア王族の末裔のアリストメネスは人々により王に選ばれた。しかし、彼はそれを辞退して全権を持った将軍となり、戦争の指揮を執った。翌年の猪塚の戦いではメッセニア軍はスパルタ軍に対し、勝利を勝ち取った。続いてアリストメネスはスパルタ市近郊に進撃し、それに対してスパルタ王アナクサンドロスは待ち伏せを仕掛けるも、逆に打ち破られた。
開戦から3年目、負け続けのスパルタはメッセニアに味方していたアルカディア王アリストクラテス2世を買収した。続く大掘割の戦いではスパルタ軍の攻撃と共にアルカディア軍は退却し、メッセニア軍は多くの指導者を失う大敗を喫した。
この戦いが転換点となり、戦況はスパルタ優位になった。一方、メッセニア側は守りを固めたヘイラ山に退却し、アリストメネスは自ら軍を率いて遊撃戦を展開した。その間アリストメネスは敵に捕らえられたが、脱出してヘイラに戻った。メッセニア軍は10年間ヘイラを維持したが、スパルタ軍の攻撃を受け、遂に陥落し、メッセニア人は全員ではないにせよアルカディアへ退避した。こうして戦争はスパルタの勝利に終わった。
結果
こうして再び敗れたメッセニア人はスパルタの軛に繋がれた。しかし、一部はシケリアに落ち延びてメッサナを建設し、またアリストメネスはロドスに向かい、そこで英雄として尊敬されつつ死んだ。
一方のスパルタはこの反乱事件によって隷属民への危機感を増大させ、国民皆兵に政策転換を行った。元々は優れた金属工芸技術を有していた技術大国のスパルタであったが、これ以降は市民の生産活動への参加を禁じる方針をとることとなった。
参考文献
パウサニアス著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、龍渓書舎、1991年
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第二次メッセニア戦争
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「アリストメネス」の記事における「第二次メッセニア戦争」の解説
紀元前724年に終戦した第一次メッセニア戦争でメッセニアはスパルタに敗れ、メッセニア人はヘイロータイの身に落とされ、スパルタ人の過酷な支配を受けた。メッセニア人には将来に亘って待遇の改善の見込みがなく、彼らは今のままでいるよりは戦って死ぬかペロポネソスから完全に亡命してしまうほうが良いと考え、反乱の機運が高まった。メッセニア人は軍備を整えたり、事前にアルゴスやアルカディアを同盟者に引き入れるなど準備を整え、紀元前685年に決起した。 反乱の同年に最初の会戦であるデレスの戦いが起こった。この戦いは引き分けに終わったものの、この戦いで活躍したアリストメネスは王家の末裔でもあったためか人々によって王に選ばれた。しかし彼は王位を辞退して絶対権を持つ将軍になった。戦争の二年目、猪塚の戦いが起こった。この戦いでアリストメネスはスパルタ王アナクサンドロス率いる親衛隊を蹴散らし、勝利した。続いてラコニアのパライ(またはパリス)市から家畜を奪い、帰路を襲ったアナクサンドロスを再び破った。 紀元前682年、大掘割の戦いが起こった。メッセニア側には同盟軍としてアリストクラテス2世率いるアルカディア軍がいたが、彼はスパルタ側から買収されていたため、いざ戦いという時に軍を引き上げた。このため孤立したメッセニア軍はなすすべもなく敵に包囲され、アリストメネスの奮戦虚しく多数のメッセニア人が戦死した。大敗北の後アリストメネスは内陸地域を放棄し、住民たちをヘイラ山へと避難させた。スパルタはこれを包囲したが、メッセニア側は11年間もの間ヘイラ山を守り抜いた。その間アリストメネスはゲリラ戦を展開し、今や敵地となった領土を略奪して回った。 アミュークライからの帰りにアリストメネスは二人の王が率いるスパルタ軍と遭遇し、戦いに移った。アリストメネスは捕えられ、他の捕えられた兵士と共にケアダスの谷に投げ込まれた。唯一人生き残ったアリストメネスは死体をあさりに来た狐の後をつけて出口を発見し、ケアダスの谷を脱出した。そして彼は無事ヘイラに戻った。 包囲から11年目、ヘイラはスパルタ軍から豪雨に乗じた夜襲を受けた。メッセニア軍は二日目までは踏みとどまったものの、三日目にヘイラから退去した。この退却戦でアリストメネスは先陣を占め、殿の指揮を息子のマンティクロスに執らせた。スパルタ軍は死に物狂いの敵と戦うよりは敵を逃がすことを選び、メッセニア人は敵陣を通り抜けることができた。その後メッセニア人はアルカディアのアリストクラテスの許に逃げた。アリストメネスはそこで命を惜しまないと見た500人を選抜し、スパルタ市を直接攻撃しようと考え、アルカディア人まで300人がそれに参加しようとしたが、占いで吉兆を示さなかったため取りやめた。翌日、アリストクラテスが密かにスパルタにアリストメネスの計画を知らせる手紙を送ったこと、さらに大掘割の戦いでの退却の事実が露見し、アリストクラテスはアルカディア人によって石打ちで殺された。
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