第二次マラーター戦争の勃発と戦闘
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「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事における「第二次マラーター戦争の勃発と戦闘」の解説
一方、プネーを追われたバージー・ラーオ2世はボンベイのイギリスを頼って逃げ、 1802年12月31日にイギリスと軍事保護条約バセイン条約を結び、1803年5月3日にプネーに戻っていた。 バージー・ラーオ2世が結んだバセイン条約には、マラーター王国の領土割譲なども約してあったため、マラーター諸侯の反感を買うこととなった。そのため、ヤシュワント・ラーオは団結してイギリスと戦うため、グワーリヤルのダウラト・ラーオやナーグプルのラグージーに手紙を書いた。その内容はこうだった。 “ 「最初に我々の国家、最後に私たちの宗教を。我々は我々の国家の利権のため、宗教やカースト、そして我々の現状を越えて立ち上がる必要がある。あなたがたも私のように、イギリスに対し戦争を行わなければならない。 ” こうして、同年6月4日にインドール、グワーリヤル、ナーグプルの三国間に同盟が結成され、イギリスに対し共同で立ち向かうこととなった。
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