第二次マラーター戦争における奮戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 05:24 UTC 版)
「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事における「第二次マラーター戦争における奮戦」の解説
シンディア家とボーンスレー家が降伏したのち、ヤシュワント・ラーオがようやく動き出した。 ヤシュワント・ラーオは、イギリスがシンディア家・ボーンスレー家との間で行った一連の戦いを綿密に調べ上げて研究し、そこから何かを読み取った。彼がシンディア・ボーンスレー連合軍の戦闘を呆然と見ていたのも、下手に手を出して敗北するより、戦術を見極めて勝利をつかむやり方のほうが効率が良いと判断したからだった。全てはこのためだった。 結局、ヤシュワント・ラーオが導き出した結論はこうだった。シンディア家がとったヨーロッパ方式を真似た多数の歩兵および砲兵による戦術は、それらで圧倒的に優勢なイギリスにとっては明らかに不利であった。そのため、ホールカルは、かつてシヴァージーが取った戦術、多数の騎兵を駆使して敵を翻弄するマラーター本来の戦術をとることにした。 1804年上旬には、ヤシュワント・ラーオはイギリスに講和条約を結ぶよう説得されたが、両者の交渉は決裂し、戦争の続行が決定された。ここから長期にわたる両者の戦いが続いた。 7月8日から9日かけては、ヤシュワント・ラーオの軍はムクンドワラ峠の戦いでウィリアム・マンソンの軍を破っている。また、6月から9月にかけては、別の幾度かの戦いで英国の軍勢を破るなど、緒戦での勝利を収めている。 8月になると、ヤシュワント・ラーオはついにはアーグラを脅かした。同月22日にアーサー・ウェルズリーがバージー・ラーオ2世の軍ともにプネーから出陣し、ホールカル家の領土の一部を奪った。このことを知ると、彼はマトゥラーに滞在し、イギリスから領土を取り戻す戦略を立てた。 10月8日、ヤシュワント・ラーオはムガル帝国の首都デリーを包囲、攻撃した。これは1803年9月以降イギリスのもとで年金生活者として生活していた皇帝シャー・アーラム2世を解放するためであった。だが、同月15日にジェラルド・レイクの奇襲よってホールカル軍は壊滅的な打撃をうけ、19日に撤退した。けれども、シャー・アーラム2世はヤシュワント・ラーオの武勇を褒め称え、「マハーラージャーディラージ」と「ラージ・ラージェーシュワル」の称号を与えた。 その後、幾度かの戦いののち、ヤシュワント・ラーオは彼の同盟国バラトプル王国へと逃げ、1805年1月にジェラルド・レイクはその首都バラトプルを包囲した(バラトプル包囲戦)。イギリスはバラトプルに対して、幾度かの攻撃を行ったが失敗したため、2月22日に撤退せざるを得なかった。 ヤシュワント・ラーオの名はその武勇により、インド全土に名を馳せることとなった。ホールカル家の同盟者は多かったため、イギリスは戦後にホールカル家の領土を分割することでその結束を砕こうとした。これにより、4月17日にバラトプル王ランジート・シングはイギリスと講和条約を結び、戦線を離脱した。また、ピンダーリーのアミール・ハーンも裏切り、トーンクに領土を与えられた。
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