第二次マラーター戦争、マラーター勢力の緩やかな連携
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 09:13 UTC 版)
「マラーター同盟」の記事における「第二次マラーター戦争、マラーター勢力の緩やかな連携」の解説
1772年8月、マーダヴ・ラーオの没後、弟ナーラーヤン・ラーオが継いだものの、彼は宰相位を狙う叔父ラグナート・ラーオによって殺された。 しかし、1774年、宰相府はラグナート・ラーオを廃位して、ナーラーヤン・ラーオの死後に生まれた息子マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを宰相とした。そのため、不利になったラグナート・ラーオがイギリスに援助を求め、第一次マラーター戦争が起こった。 第一次マラーター戦争では、マラーターが優勢でイギリスが苦戦し、サルバイ条約で兵を引かざるを得なかった。 18世紀末、マラーター勢力はマーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを擁する権臣ナーナー・ファドナヴィースのもと、緩やかな連携を保っていた。 他方、諸侯は独自に軍事活動を行っており、なかでもシンディア家が最も有力であった。その当主マハーダージー・シンディアは北インドに広大な領土を有し、ムガル帝国の内政にも関与して、1784年にはムガル帝国の摂政に任命された。ただし、マハーダージーはマラーター王国ではナーナー・ファドナヴィースに対立する派閥に手を貸していたし、ホールカル家とも領土をめぐり対立していた。
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