第二次マラーター戦争と講和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/19 15:10 UTC 版)
「ダウラト・ラーオ・シンディア」の記事における「第二次マラーター戦争と講和」の解説
バージー・ラーオ2世はプネーから逃げざるを得ず、1802年12月31日にイギリスと軍事条約バセイン条約を結び、マラーター王国の領土割譲なども約し、1803年5月3日にプネーに戻っていた。 そのため、ヤシュワント・ラーオはイギリスと戦うため、グワーリヤルのダウラト・ラーオやナーグプルのラグージー・ボーンスレー2世に団結を求めた。シンディア家もイギリスがマラーター同盟の問題に介入してきたことを脅威に思っていたので、宰相府から離れることにした。 8月に第二次マラーター戦争が勃発したのち、9月11日にシンディア家は庇護下にあったデリーをイギリスに攻撃され、デリーがイギリスのものとなると(デリーの戦い)、ボーンスレー家とシンディア家は連合して戦うようになった。 だが、同月23日にシンディア家とボーンスレー家の連合軍がアッサイェの戦いで敗れ、11月29日のアルガーオンの戦いでも連合軍は大敗し、ここから講和への流れが強まっていった。 12月17日にボーンスレー家がイギリスと講和条約デーオガーオン条約を締結したのち、12月30日にシンディア家も講和条約スールジー・アンジャンガーオン条約を締結し、デリー・アーグラ地域などを割譲した。
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