第二次マラーター戦争終結後のインド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/26 20:18 UTC 版)
「第三次マラーター戦争」の記事における「第二次マラーター戦争終結後のインド」の解説
先の第二次マラーター戦争は、ホールカル家の当主ヤシュワント・ラーオ・ホールカルの奮戦によりイギリスと互角に戦い抜き、1805年12月に講和が結ばれて終結していた。だが、その平和も10年足らずですぐに打ち砕かれることとなった。 まず、1811年にイギリス打倒のために日々心血を注いでいたヤシュワント・ラーオ・ホールカルが突然死したのだった。後を継いだのはまだ幼少の息子マルハール・ラーオ・ホールカル2世だった。 つぎに、1806年初頭にホールカル家、シンディア家、ボーンスレー家の領土をはじめとする中央インドが無政府状態となり、マラーターの補給部隊である盗賊ピンダーリーが急速に勢力を拡大した。彼らはマラーター戦争で職業を失った軍人を引き入れ、シンディア家やホールカル家と組み、富を求めてイギリスの植民地を毎年のように略奪した。 そして、最後はマラーター同盟の内紛だった。1802年にマラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世はイギリスとバセイン条約を締結しマラーター諸侯の反感を買い、第二次マラーター戦争の原因を作ったが、またしても同じ過ちを繰り返そうとした。 1814年、バージー・ラーオ2世の宰相府とグジャラートのガーイクワード家との間で、グジャラートの重要都市アフマダーバードをめぐる争いが起こった。ガーイクワード家はイギリスと友好条約を結び、第二次マラーター戦争にも参加していなかったマラーター諸侯である。そして、その調停はイギリスによって執り行われることとなった。 だが、1815年7月14日にガーイクワード家の派遣された使節ガンガーダル・シャーストリーを、バージー・ラーオ2世の家臣が殺害してしまう。暗殺したその家臣はイギリスによって逮捕され、ボンベイに投獄された。 しかし、1816年9月にこの家臣は脱獄した。バージー・ラーオ2世は彼に資金を援助し、シンディア家の当主ダウラト・ラーオ・シンディアとホールカル家のマルハール・ラーオ・ホールカル2世に対して、挙兵してイギリスに共同で立ち向かうこと提案した。
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