第二次マラーター戦争の勃発と傍観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/13 05:24 UTC 版)
「ヤシュワント・ラーオ・ホールカル」の記事における「第二次マラーター戦争の勃発と傍観」の解説
同年8月8日、シンディア家とイギリスが交戦状態に入り、第二次マラーター戦争が勃発した。 9月11日、シンディア家がムガル帝国の首都デリーを奪われたのち、マラーター側の軍勢が劣勢に陥ったが、ヤシュワント・ラーオはシンディア家とボーンスレー家が敗北するのを眺めていた。無論、ヤシュワント・ラーオ・ホールカルはシンディア家とボーンスレー家の連合軍が、アッサイェの戦いやラスワリーの戦いなどで大敗している間も手を貸すことはなかった。 12月17日、ラグージーはイギリスと講和条約を結んで、ボーンスレー家は真っ先に戦線を離脱した。同月 30日にはダウラト・ラーオも講和条約を結び、戦線を離脱し、ヤシュワント・ラーオは孤立するところとなった。
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