第二次モロッコ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/19 09:32 UTC 版)
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2018年3月) ( |

第二次モロッコ事件(だいにじモロッコじけん、Second Moroccan Crisis)とは、1911年に、ドイツ政府が砲艦をモロッコ南西の港湾都市アガディールに派遣したことによって生じた国際紛争である。別名アガディール事件(Agadir Crisis)。
背景
1902年8月にベルベル人アブー・ルマラがスルタンを自称して現王朝に反旗を翻す(1907年鎮圧)など、20世紀初頭のモロッコでは反乱が頻発していた。フランスは鎮圧のためしばしば出兵したが、実質的な宗主国としてのフランスの地位を確認する行動ともいえるものであった。1907年8月にはフェスでスルタンのムーレイ・アブドゥル・アズィズ4世 (Mulai Abd-al-Aziz IV) の廃位を要求する民衆運動が発生し、これに呼応したムーレイ・アブドゥル・ハーフィズ (Mulai Abd-al-Hafiz) は1908年1月、兄を廃してスルタンの位に就いた。こうした中央の混乱も、フランスの進出を助長した。
第一次モロッコ事件での緊張はアルヘシラス会議によって表面上は解消され、フランスはモロッコに対する影響力を強めた。1908年9月、フランス外人部隊の兵士3名がカサブランカでドイツ船に乗って逃走したことから独仏が衝突したが、この時はドイツの譲歩によって1909年2月、両国間にモロッコに関する協定が成立した。これにより、ドイツはモロッコにおいて経済活動のみを行い、モロッコにおけるフランスの政治的優位を認めた。しかし、ドイツの野心はいまだ消えてはいなかったのである。
発生と経過
1911年、ベルベル人が大規模な反乱を起こした。同年4月、フランスは鎮圧のためモロッコに出兵。これに対してドイツは、同地に在住する自国民の生命・財産の保護を口実として、7月1日、にわかにイルティス級砲艦パンター [1]をアガディール (Agadir) に派した。実際にはアガディールにはドイツ人は居住しておらず、このためだけに近隣のドイツ人を呼び寄せたという。
独仏関係は再び緊張した。7月3日、駐英フランス大使カンボンはイギリス外相グレイに対し、アガディールに共同で軍艦を派遣するよう強く要求した。これを受けてグレイは、翌4日に閣議を開催する方針を決定。一方、ドイツ首相ベートマン・ホルヴェークは駐英ドイツ大使メッテルニヒに対し、もしイギリスが強硬措置に出た場合、「パンター号の派遣は、フランスとスペインのアルヘシラス議定書違反に伴う経過措置に過ぎない」と弁明するよう命じた。しかし独仏関係は強い敵対状態になり、両国の全面衝突は避けられないかとも思われ、ベルリン証券取引所でパニックが起こったほどである。
妥結
イギリスは積極的にフランスを支持した。7月18日、イギリスとフランスは軍事協定を締結。7月21日には、イギリス蔵相ロイド・ジョージが対独強硬演説を行い公然とフランスを支持するなど、事態は全面戦争にまで至るかに見えたが、これと並行して独仏は、7月9日以降問題解決のため交渉を重ね、10月11日にモロッコ協定、11月3日にコンゴ協定がそれぞれ成立した。ドイツはモロッコに対する要求を放棄し、その代償としてフランス領コンゴの一部であったノイカメルーンを獲得し、ドイツ領カメルーンの領土を拡大した。
1912年3月30日、フランスはスルタンとフェス条約を締結。これによりモロッコは、他国の保護に甘んじることとなった。セウタやメリリャなど北部とスペイン領サハラに接する南部はスペインの保護領に、残る大部分の国土はフランスの保護領となった。また、タンジールとその周辺の373平方kmに関しては国際管理都市とされ、列強の勢力均衡が図られた。
この事件は独仏間に大きな遺恨を生ぜしめ、対して英仏関係を強化する結果となった。また、保護国化に反対するモロッコ人民は、これを鎮圧せんとするフランス、スペイン両国の外人部隊と血みどろの抗争を繰り広げることとなるのである。
備考
関連項目
外部リンク
第二次モロッコ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 04:49 UTC 版)
「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「第二次モロッコ事件」の解説
ヘンリーは、7月4日(フランス人を威嚇すべく、ドイツがイルティス級砲艦パンター号(英語版)をモロッコ南西の港湾都市アガディール(Agadir)に派遣した3日後)、深夜まで眠らずに参謀本部総長(CIGS)に長い書面を書いた。7月19日、彼はアドルフ・メッシミ(英語版)(フランスの戦争大臣)とオーギュスト・イヴォン・デュバイユ将軍(英語版)(フランスの参謀総長)との会談のためパリに向かった。ヘンリーとデュバイユ将軍の覚書は、両国政府とも約束していない事が明確にもかかわらず、戦争の場合は、英国海軍が6個師団の歩兵部隊と1個師団の騎兵部隊(合計150,000名)をルーアン、ル・アーブルとブローニュへ派遣し、海外派遣軍(BEF)が動員13日目までにアラス、カンブレー及びサン=カンタンの間に集結する事を約束していた(実際には、フランスがそれを知っていたか不明ながら、輸送計画は全く準備ができていなかった)。英国が送ろうとしていた公約の規模は、誇張した考えであるという点は残されていたが、フランス人は、その海外派遣軍を「ヘンリーの軍」と呼んだ。 ヘンリーは、デビッド・ロイド・ジョージ議員(当時大蔵大臣。後の首相)の邸宅におけるスピーチ(フランスを支援する内容で、彼は「臆病なグレイ外務大臣の引き延ばし」より好ましいと考えていた)を承認した。8月9日、ヘンリーは、グレイ外務大臣、エア・クロウ卿(英語版)(外務省の次官補佐)と昼食をとり、英国がフランスと同じ日に軍を動員して全6師団を送り込まなければならないと彼らをせき立てた。ヘンリーは、二人のうちグレイ外務大臣の方を「最も無知で無頓着…ポルトガルよりも大きないかなる国の外相にも全く不向きな、無知でうぬぼれの強い、弱い男」と考えていた。ヘンリーは恐らく、グレイ外務大臣が平和的解決を見出そうとするだけでなく、国内の政治危機が1911年の議会法の採決強行とロンドン、リバプールと南ウェールズのストライキに対する軍隊配置にあるとみなしている事を、評価できなかったのだろう。
※この「第二次モロッコ事件」の解説は、「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の解説の一部です。
「第二次モロッコ事件」を含む「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事については、「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の概要を参照ください。
- 第二次モロッコ事件のページへのリンク