第二次モロッコ事件
第二次モロッコ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 04:49 UTC 版)
「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「第二次モロッコ事件」の解説
ヘンリーは、7月4日(フランス人を威嚇すべく、ドイツがイルティス級砲艦パンター号(英語版)をモロッコ南西の港湾都市アガディール(Agadir)に派遣した3日後)、深夜まで眠らずに参謀本部総長(CIGS)に長い書面を書いた。7月19日、彼はアドルフ・メッシミ(英語版)(フランスの戦争大臣)とオーギュスト・イヴォン・デュバイユ将軍(英語版)(フランスの参謀総長)との会談のためパリに向かった。ヘンリーとデュバイユ将軍の覚書は、両国政府とも約束していない事が明確にもかかわらず、戦争の場合は、英国海軍が6個師団の歩兵部隊と1個師団の騎兵部隊(合計150,000名)をルーアン、ル・アーブルとブローニュへ派遣し、海外派遣軍(BEF)が動員13日目までにアラス、カンブレー及びサン=カンタンの間に集結する事を約束していた(実際には、フランスがそれを知っていたか不明ながら、輸送計画は全く準備ができていなかった)。英国が送ろうとしていた公約の規模は、誇張した考えであるという点は残されていたが、フランス人は、その海外派遣軍を「ヘンリーの軍」と呼んだ。 ヘンリーは、デビッド・ロイド・ジョージ議員(当時大蔵大臣。後の首相)の邸宅におけるスピーチ(フランスを支援する内容で、彼は「臆病なグレイ外務大臣の引き延ばし」より好ましいと考えていた)を承認した。8月9日、ヘンリーは、グレイ外務大臣、エア・クロウ卿(英語版)(外務省の次官補佐)と昼食をとり、英国がフランスと同じ日に軍を動員して全6師団を送り込まなければならないと彼らをせき立てた。ヘンリーは、二人のうちグレイ外務大臣の方を「最も無知で無頓着…ポルトガルよりも大きないかなる国の外相にも全く不向きな、無知でうぬぼれの強い、弱い男」と考えていた。ヘンリーは恐らく、グレイ外務大臣が平和的解決を見出そうとするだけでなく、国内の政治危機が1911年の議会法の採決強行とロンドン、リバプールと南ウェールズのストライキに対する軍隊配置にあるとみなしている事を、評価できなかったのだろう。
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第二次モロッコ事件
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「フランス第三共和政」の記事における「第二次モロッコ事件」の解説
仏独関係は、1911年の第二次モロッコ事件で再び緊張した。ドイツはモロッコに対する要求を放棄し、その代償としてフランス領コンゴの一部であったノイカメルーンを獲得し、ドイツ領カメルーンの領土を拡大した。1912年3月30日のフェス条約締結後も、仏独関係は緊張の度合いが高いまま残された。
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